本郷和人の日本史ナナメ読み

(39)「得したのは誰か?」で史料を読む

元久2(1205)年、鎌倉武士の中の鎌倉武士、畠山重忠と一族が滅んでいきました。畠山氏の抹殺を強引に推し進めた北条時政への批判が、御家人の中で高まります。直後に娘婿である平賀朝雅(ともまさ)を源実朝に代え、将軍に擁立しようとした時政の陰謀が露見。子息の北条義時は時政を引退させて、執権の地位を引きつぎました。時政は伊豆に追放され、朝雅は京都で討たれました。そう、『吾妻鏡』は記しています。

この一連の事件に隠されたテーマは、「武蔵国の覇権の争奪」であると考えられます。畠山氏は武蔵随一の武士団、秩父党の棟梁(とうりょう)。由緒正しき名家です。実体が伴わぬ名誉職だったようですが、「武蔵惣検校(そうけんぎょう)」なる肩書も保持していた。一方の平賀朝雅は、父の義信の代からの、武蔵の国司かつ守護。土着の勢力ではないものの、こちらもれっきとした武蔵武士のボス。両者は互いに、目の上のこぶといった存在。その畠山氏・平賀氏が共倒れのようなかたちで、跡形もなく姿を消した。

そのあとを襲ったのが、言わずと知れた北条氏です。国司と守護の職も、豊かな所領も北条氏のものとなり、その状態は鎌倉幕府の倒壊まで、変わることがありませんでした。さらに細かく言うならば、最大の受益者は北条義時です。本来は北条本家を嗣(つ)ぐ立場になかった「江間義時」は、父を否定して「北条義時」となり、姉である政子と組んで、幕府政治の主導権を掌握しました。

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