世界史の遺風

(59)ギボン 『衰亡史』に学んだ大英帝国(東大名誉教授 本村凌二)

 そこにユピテル神殿の廃虚で夕べの祈りを朗誦(ろうしょう)する裸足(はだし)の修道士たちの声が聞こえてきたという。最初の着想は帝国よりもむしろ都市の衰退にかぎられていたのだが。

 イギリス史の専門家の間では、植民地アメリカの独立は島国イギリスを頂点とする海洋帝国にはそれほど大きな意味をもたないと考えられている。その後1世代もたたないうちにアメリカへの移民はふたたび活発になり、アメリカ喪失という記憶も薄れていったからという。

 しかし、ギボンと同時代を生きた人々には、拡大されすぎた領土とその喪失の危機という観念はどこか真に迫るものがあった。19世紀ヴィクトリア王朝期における大英帝国の飛躍は、むしろこの危機感を踏み台にしていたのではないだろうか。『衰亡史』という失敗から学ぼうとしたイギリス人。ギボンの著作の成功は、愛読したイギリス人のしたたかさの成功でもあったのだ。

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プロフィルエドワード・ギボン

 18世紀英国の歴史家。1737年ロンドン近郊に生まれ、オックスフォード大などで学ぶ。ヨーロッパ各地を旅し、64年にローマの古代遺跡で啓示を受け、歴史書『ローマ帝国衰亡史』の執筆を思い立つ。下院議員を務めていた76年に第1巻を出版、88年までに全6巻を刊行し、歴史家としての声望を得る。94年、死去。

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プロフィル本村凌二

 もとむら・りょうじ 昭和22年、熊本県生まれ。東大大学院修了。文学博士。専門は古代ローマ史。著書に『薄闇のローマ世界』『馬の世界史』など。サントリー学芸賞、JRA馬事文化賞、地中海学会賞受賞。