■「臥薪嘗胆」が合言葉に
徳富蘇峰(そほう)は明治から昭和まで息長く活躍したジャーナリスト、言論人である。
若いころ、長州藩や薩摩藩などの出身者による「藩閥政治」を批判、平民主義をとなえ若者らから人気を得ていた。戦後の「進歩的文化人」の人気と思えばいい。
その蘇峰は明治28(1895)年4月、清国の遼東半島を旅行した。中国大陸から黄海と渤海湾に突き出た半島で旅順や大連などの都市がある。日清戦争で日本が占領、4月17日、下関で結ばれた講和条約で、日本に譲り渡されることが決まっていた。
ところが蘇峰が帰国する前になってロシア、ドイツ、フランス三国の圧力に屈し、日本がせっかく得たこの地を放棄したことを知り愕然(がくぜん)とする。
「予は露西亜(ロシア)や独逸(ドイツ)や仏蘭西(フランス)が憎くは無かった。彼等の干渉に腰を折った吾が外交当局者が憎かった」(『蘇峰自伝』)と、矛先を当時の首相の伊藤博文や外相、陸奥宗光らに向ける。
そして日本への土産として、旅順の波打ち際から小石や砂利を一握り、ハンカチに包んで持ち帰った。「一度は日本の領土となった記念として」だった。
蘇峰はこれを機に平民主義から国権主義や軍拡主義へと変わる。いわゆる「転向」である。その後は「藩閥政治家」として批判していた桂太郎らにも接近、かつての支持者からは批判を浴びる。
だが、この「三国干渉」とこれを受け入れた政府への怒りは蘇峰だけのものではなかった。
「三国干渉」は講和条約締結からわずか6日後の4月23日、3カ国の日本公使が外務省に林菫(ただす)外務次官を訪ね、本国の意向として遼東半島の放棄を求めた。
日本がこの半島を所有することは将来「極東の永久平和に障害を与える」という理由だったが、むろん建前にすぎない。
自らの領土を増やすのに手段を選ばない帝国主義の時代である。東洋にも触手を伸ばす西欧の強国として「日本のごとき」小国が、新たな領土を得ることはがまんができなかったのである。