石川に架かる金剛大橋にさしかかると、景観がいっきにパノラマ状にひろがった。金剛山から葛城山系の山々が、青い稜線(りょうせん)をえがいていた。
欄干から見おろすと、水量はそんなに多くはない。両岸には、かなりの広さの河川敷がひろがっている。市街地側の河川敷は整備され、公園やグラウンドになっている。少年野球やサッカーなどが行われているのであろう。平日の午後遅く訪れたため、グランドにはだれもいなかった。
河内長野市の山中からの天見川や、千早赤阪村の千早川などが合流した石川は、柏原市で大和川にそそぐ。流域がすっかり変わってしまった大和川とはことなり、石川は古代からあまり変わっていないはずである。
流域一帯は河内国石川郡と呼ばれた。豊沃(ほうよく)な土地がひろがっていたため、百済系の渡来人が多く住みついた。そのなかに、「ナゾの豪族」と呼ばれる蘇我一族も含まれていた、という説がある。
武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とあおぐ蘇我氏は6世紀前半、稲目(いなめ)がこつぜんと登場した。稲目は娘たちを天皇の后妃にさせ、いっきに勢力をのばした。