翻・訳・机

亀山郁夫(名古屋外国語大学長) 苦行の先の歓びのために

 私には使命がある、と、いつからか思いこむようになった。70歳までにドストエフスキーの5大長編をすべて翻訳する。残された時間は、6年。残された作品は、『白痴』と『未成年』。400字詰め原稿用紙に換算して、約5千枚。単純計算で、1日3枚。体調さえ崩さなければ、けっして不可能な分量ではないと思う。

 翻訳という作業は、九割九分が苦行で、歓(よろこび)びは、一分にも満たない。老い先長くもないのに、なぜ、こんな割にあわない苦行を引き受けるのか。そんな不条理感につきまとわれることもある。しかし一分にも満たない歓びが、どうやら何にも代えがたい意味を持っていたらしい。月並みな比喩だが、アルピニストが山頂を目指すように、マラソン選手がゴールを目指すように、私もまたひたすら達成感を求めて翻訳を続けてきた。

 広々とした白い余白のある会話の頁(ぺーじ)がうれしかった。頭の中がにわかにクリアになり、マラソン選手が経験するランニングハイの訪れを受けることもしばしばあった。

 逆に苦手なのは、登場人物の外見描写、そして何より、果てしなくつづく地の文。途中、長い地の文を放りだし、次の会話の部分を先に訳すといったこともまれではなかった。

 それにしても、人生というのは不思議である。50代半ばまで、翻訳など自分にはまるで無縁の仕事だと思っていた。「君子、危うきに近寄らず」という表題のエッセーまで書いたこともあった。「危うき」とは、むろん、翻訳のことを言っている。

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