河内幻視行

錦織神社 3人の尼の過酷な運命 

 「市」とあるから、交易センターのような場所である。人通りも多い。尼たちは「三衣(さむえ)を奪ひて」とあるから、全裸にされたうえ、お尻や肩をムチで打たれた。

 いまふうにいえば、SMショーである。市に集まった男たちはツバを飲んでヤンヤの喝采をあげたであろうと、筆者はかってに想像している。

 3人の尼は屈することなく、馬子のもとに返されたあとも、仏に仕え続けた。

*  *  *

 神社の長い参道に出た。右手に茶褐色の大きな碑が立っていた。「天○組 河内勢顕彰碑」とあった。「○」の部分は碑が摩滅していたために判読できなかったが、「忠」か「誅」のはずである。

 その下には和歌が刻まれていたが、こちらも読み取ることはできなかった。志士の一覧を刻んだ碑があり、その筆頭は「水郡(にごり)善之祐」であった。河内天誅組は郷土の「誇り」であった。

 錦織はその後、「三善」という姓に改姓した。その子孫がこの神社を造ったのであろう。かれらにとっても錦部は、先祖代々にわたる「誇り」の地であった。

 --平家滅亡後、建礼門院が隠棲した京都・大原の寂光院は推古2(594)年、聖徳太子が創建したとされる。初代住職の名前は「恵善尼」とある。

 あの恵善尼と同一人物かどうかは不明だが、時期的にはほぼかさなる。

 壇ノ浦で死ぬことができなかった建礼門院と、SMショーにさらされ、錦部に帰ることもできなかったであろう恵善尼とが、こころの平安をもとめ、ひっそりと生きていくには、最適な地であったことはたしかである。

(福嶋敏雄)

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