河内幻視行

錦織神社 3人の尼の過酷な運命 

 かつてこのあたりは、錦部(にしごり)郡百済郷という地名であった。「百済」とあるから、渡来系の氏族が住みついたのであろう。

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 百済系を中心とした渡来系の工人集団氏族は雄略朝の時代、多数が渡来した。今来漢人(いまきのあやびと)と呼ばれた。鍛冶、馬飼、鞍造、金造などとともに、錦部という氏族もふくまれていた。

 いまでいえば、ハイテク集団である。錦部も織物を専門とする工人たちであったが、どんな集団だったのか、もうひとつよく分からない。

 『日本書紀』のなかで、「錦部」、あるいは「錦織」をさがすと、敏達天皇13(584)年、恵善尼(えぜんのあま)という女性の名前が出てくる。もとの名前は「石女(いしめ)」で、父親は錦織壺(つふ)とある。

 錦部郡のなかでも首長クラスの有力者で、もともと仏教に帰依していた。石女も父親の感化を受けたはずである。

 この恵善尼をヤマトに招いたのは、崇仏派の実力者、蘇我馬子であった。仏像2体を手に入れた馬子は、仏を崇(あが)めるために播磨国にいた渡来系の僧侶、恵便を師と仰いだ。

 恵善尼は2人の尼とともに、この恵便に仕えた。いずれも10歳代の少女だったらしい。馬子の居館のちかくには仏殿(ほとけのおほとの)も造られた。

 だが少女たちには、過酷な運命が待っていた。

 翌年、国中に疫病が流行した。これを奇貨とした排仏派のドン、物部守屋は馬子の仏教崇拝が原因だと決めつけ、仏殿に放火したうえ、3人の尼を海石(つば)榴市(桜井市)に連行した。

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