「武装蜂起集団」と記したが、当初はもちろん名目があった。京の長州藩の策謀で、8月13日、孝明天皇は攘夷祈願のため、大和行幸の詔(みことのり)を発した。その先駆けとして、大和を目ざし、最終的にはいっきに倒幕を敢行するというのが、実質的なリーダーである土佐の吉村寅(虎)太郎らのネライであった。
一行は河内長野の旅館で1泊し、翌17日には天領地であった大和・五條に入り、代官所を襲ったうえ、火をはなった。代官の首ははねられた。代官は地元民の人望も厚く、現在なら、たんなる放火殺人である。
しかも翌18日には、いわゆる「8月18日の政変」が起き、京の過激派公卿(くぎょう)や長州藩は、薩摩・会津両藩によって、放逐された。天誅組追討の勅命もだされ、あっさり「賊軍」となってしまった。
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天誅組には十津川兵千人もくわわり、意気軒高であった。善之祐ら河内勢も各所で善戦したが、追討の勅命は決定的であった。
十津川兵が撤退し、数十人グループの散兵戦を展開したが、各所で幕府軍に敗れた。
9月になると、弾薬もなくなった。忠光は善之祐に、なんの連絡もせずに陣地を移動し、果無山脈を越えて熊野・新宮に脱出すると言い出した。これには善之祐も怒った。
「是の如くんば即ち我は腹背敵をうくるものにして、宛然嚢中(のうちゅう)の窮鼠たり」
と抗議し、河内勢は本隊から離脱した。十津川の村外れで、酒を飲んで寝入っているとき、迷惑に思っていた村民に爆殺されそうになった。