河内幻視行

甲田 「天誅組」あえなく賊軍に

 裏手も住宅で、当然だが、70年以上もまえの写真の面影はまったくない。ただ金剛山だけは、たしかに秀麗な山稜を青い空に溶けこませていた。 

 文久3(1863)年8月16日午後、この水郡邸から、菊の御紋の旗幟(きし)をかかげた2人の男を先頭に、ゲヴェール銃や槍などで完全武装した70人ほどの戦闘集団が、高野街道から葛城山方面に向かって、行進を始めた。

 中央付近で、ひとりだけ馬に乗っているのは、鍬(くわ)形のカブトに、緋縅(ひおどし)のよろいをまとった前侍従、中山忠光。まだ18歳であった。のちに「天誅(てんちゅう)(忠)組」と呼ばれる武装蜂起集団の、華々しい出陣式である。

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 大庄屋である水郡邸の当主、善之祐は国事に奔走し、この邸宅は南河内一帯の志士たちのサロンのになっていた。京都で天誅組が旗揚げすると、さっそく同志をつのり、甲田村や富田林村、長野村などから17人を集めた。13歳の長男、英太郎もくわわった。

 軍夫なども含めると、総勢は200人にのぼった。よほどの人格者であったのであろう。途中で、天誅組にくわわった河内の国学者、伴林光平も「性沈黙豪胆年来慨世の志深く」と評した。

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