【信楽高原鉄道事故30年】「忘れることはない」 救助の滋賀県警の吉田和夫警部
滋賀県信楽町(現甲賀=こうか=市)で平成3年、信楽高原鉄道(SKR)とJR西日本の列車が正面衝突して乗客ら42人が死亡した事故は14日で発生から30年。当時、機動隊員として油と血のにおいが立ち込める車内で人命救助に奔走した男性は「自分の中では一生、忘れることはない」と語る。
事故は滋賀県警の吉田和夫警部(57)が機動隊に入って7年目がたったころに発生した。その日は朝から大津市内の競輪場の警備にあたっていたが、隊から第一報を聞き、競輪場内のテレビをつけると、見たことのない光景が広がっていた。「大変だ」。すぐに隊にもどり、現場に向かった。
折れ曲がった列車を見たときの衝撃は今も忘れられない。約10メートルほどに盛り上がっている部分もあれば、天井と床が「ぺちゃんこ」になっている部分もあり、衝突のすさまじさを物語っていた。「足がすくんだり、恐怖におののいたりというよりも、はやく助けなければという思いだった」と振り返る。
油が漏れていたため、火花の出るエンジンカッターは使えず、消防の協力のもと、油圧式資機材でつくった隙間から被害者を引き出した。車内では、ぶつかった衝撃で人が幾重にも折り重なっていた。手足が折れ曲がっている人、ぐったりとした人の下で「痛い、痛い」と叫んでいる人、車体にはさまり身動きが取れず、医師による点滴を打ちながら救出を待つ人…。
列車には当日、信楽高原鉄道の沿線で開かれていた世界陶芸祭のために家族連れや夫婦らが多く乗り込んでいた。「楽しい思い出をつくるはずだったのに、どうしてこんなことに…」。沈痛な思いが込み上げてくるが、雰囲気にのまれている時間はない。「とにかく、一人でも多くの命を救うことに必死だった」と目の前にいる人をひたすら救出しようと不眠不休で作業にあたった。
あれから30年がたつが、同様の鉄道事故はなくならない。「あのような事故は二度と起きてほしくはない。長い年月が流れ、事故を知らない人がいてもおかしくはないが、それでも自分の中では絶対に忘れることはない」と力を込めた。