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【縁 災害が結んだ、私たち】(4)被災の爪痕を残す遺構は雄弁な証人 「ホテル観洋」女将、阿部憲子×「神戸の壁」を保存した現代美術家、三原泰治

ホテル観洋の女将、阿部憲子さん。館内には北淡震災記念公園の展示もある=12月22日、宮城県南三陸町(千葉元撮影)
ホテル観洋の女将、阿部憲子さん。館内には北淡震災記念公園の展示もある=12月22日、宮城県南三陸町(千葉元撮影)
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 街が復興へ歩みを進めると、被災の爪痕を残した建物や家屋は姿を消す。「震災遺構」。いわば「物言わぬ証人」だ。

 約26年前のあの日。変わり果てた神戸の街、その最も被害の大きかった神戸市長田区の一角に、高さ約7メートル、幅約14メートルのコンクリート壁が焼け残った。

 当時、まだ「震災遺構」という概念はなかった。同市垂水区の現代美術家、三原泰治は、焼け跡に立つ壁に力強さを感じ、保存に心血を注いできた。その思いは東日本大震災の被災地にも受け継がれた。

 平成29年9月。三原は宮城県南三陸町にいた。町にある「ホテル観洋」の女将(おかみ)、阿部憲子(58)とともに、行政に要望書を出すためだった。

 ホテル観洋の結婚式場だった「高野会館」は、海から100メートルほどのところにあった。津波が襲ったが、327人の命を守り、被災したときのままの姿で、今も残っている。ただ、民間で残すことは費用面や安全面からハードルが高い。公の枠組みで高野会館を保存するように、三原と阿部は町に掛け合っていた。

 要望書を受け取った町幹部の複雑な表情から、三原は返答を予想していた。かつて、自身が「神戸の壁」の保存に向けて動いていたころの、神戸市の幹部らの反応と重なったからだ。

 5カ月たち、南三陸町から返ってきた答えは予想通り。「高野会館を町の一般財源として保存する考えはありません」だった。

 三原は言う。

 「最初は理解してくれないかもしれない。それでも根気強く保存の方法を探していくんです」

 三原は阪神大震災当時、神戸市垂水区の自宅で被災した。「被災物が震災の経験を物語る」と、会社を辞めて市民団体「リメンバー神戸プロジェクト」を設立した。そんなとき、「神戸の壁」と出合った。

 昭和2年ごろに市場の防火壁として建設され、先の大戦の神戸大空襲にも耐えたと知った。その力強さに惹(ひ)かれ、保存を決意した。壁の解体延期や保存を訴えたが、行政は何度もはねつけた。三原は粘った。そして、平成12年に淡路島内の旧津名町(現兵庫県淡路市)に移され、現在は北淡震災記念公園(同)で保管されている。

 「いつか震災の経験者はいなくなるが、遺構は残り、いつまでも震災の経験を伝え続ける」。こう三原は遺構の重要性を説く。

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