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過激派、武装闘争の分岐点 安田講堂事件50年

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 当時、東大全共闘として安田講堂事件にかかわった元活動家の男性は「あらゆる権力、権威に対する批判を出発点として、一般の学生が主体的に動いた唯一の大衆運動だった。学生があれほどの『層』になって動いたことはなかった」と振り返る。

 男性は「新左翼といったイデオロギー集団が核となって生まれた運動ではなかった」と断言するが、東大闘争は次第に中核派などの過激派による組織活動の色彩を帯びて行く。

 当時、45年に迫った日米安全保障条約延長に反対する「70年安保闘争」の一環として学園闘争を位置付けていた過激派各派にとって、全共闘運動への浸透は必須だった。

 過激派の介入で運動が各地で組織化された結果、44年には全国379大学中173校に学園闘争が拡散、バリケード封鎖や施設占拠も常態化し、活動は大学当局との団体交渉から物理的な対立に変質していった。

 安田講堂事件は、日本の学府の象徴が廃墟となる様子がテレビで報じられ、44.6%の視聴率を記録するなど注目を集めたが、世間の共感は得られず沈静化。過激派は構成員が減少、デモなどを中心とする街頭闘争に陰りが見え始めたこともあり、武装闘争に走る。

 活動が先鋭化する中、44年9月には共産主義者同盟の一部が「武装蜂起」を掲げて赤軍派を旗揚げ。首相官邸や警察施設襲撃、獄中活動家らの奪還作戦を計画するなど戦闘的な集団となり、同年11月に山梨県の大菩薩峠周辺で実施した軍事訓練をめぐり活動家53人が逮捕された。

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