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【福島第1原発事故 5年目の真実(3)】
「犠牲覚悟」極秘の石棺作戦 政府はパフォーマンスのみ 陸自が模索

事故後、郡山市にも原発周辺地域から多くの人たちが逃れてきた。避難所となった「ビッグパレットふくしま」には何千人もの被災者が集まっていた。原発周辺地域から内陸に逃れてきた人たちの多くが目に見えない放射線におびえながら、いつまで続くかわからない避難生活に不安な日々を送っていた。当時、政府は住民被曝につながる情報を持ちながらも、やはり不安をあおるとして隠していた。
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「あのとき飯舘村の人たちは何も知らなかった。自衛隊が飯舘村の住民を避難させるべきだった」。火箱芳文陸幕長は悔しさをにじませる。
23年3月18日から福島県飯舘村に展開していた第1空挺団(千葉県船橋市)の被曝線量だけが上昇していた。火箱氏はその数値に疑問を感じ、手元にあった緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)と見比べると、図面通りだった。「飯舘村の人たちも被曝している」と確信した。3月29日、火箱氏が現地部隊を視察した際、現場の指揮官に「村長さんにも、今の状況を言ったほうがいい」と指示したが、この重要な情報が住民に伝わることはなかった。当時の官邸筋によると、3月17日に枝野幸男官房長官がSPEEDIの観測結果を非公表とするよう指示を出していたとされる。同日のデータでは飯舘村でも高い数値が検出されていた。
政府が飯舘村全域を計画的避難区域に指定する方針を発表したのは4月11日になってからだった。菅政権の隠蔽(いんぺい)により無用な被曝を受け、今も飯舘村から避難する住民は6735人にのぼる。(肩書は当時)