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【夕焼けエッセー】夫の腕時計

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【夕焼けエッセー】
夫の腕時計

 84歳の夫は今年2月13日、天国に召された。施設入所2年、ある日突然に高熱と激しい腰痛に見舞われ、精査加療のために緊急入院となった。2年前にも別の病気で入院したことがある。当時夫はロレックスの高級腕時計をしていた。私は「腕時計は家で預かり、病院には小さい置き時計を持って来るから」と忠告したが、「大丈夫」と聞き入れなかった。案の定時計を紛失し二度と出てこなかった。今回の入院に際して夫は「預かってくれ」と自ら私に預けた。私は時計を居間のテーブルの上に置いている小物入れに入れている。それ故毎日いつでも時計を見ることができる。秒針は音もなく刻々と時を刻んでいる。夫の病状が次第に悪化してきたときも、秒針が動いている限り「夫は大丈夫だ」と私は思い込むようになった。

 告別式の日、私は棺の中に夫の腕時計を入れるかどうか迷った。しかし私は、とうとう入れなかった。腕時計の秒針がコツコツと時を刻む様は、私には夫の心臓の鼓動のように思える。電源は太陽光式なので、陽が当たる限り半永久的に動く。その点は居間の窓越しから十分に陽が射し込み自然に充電される。

 結婚生活44年、私は夫の腕時計など気に留めたこともなかったのに、「私をどれほど励ましてくれたことか、そしてこれからもそっと私に寄り添って元気を与えてくれる」と思うと夫の時計がいとおしくてならない。

久崎掬子(ひさざき・きくこ)(82) 医師 堺市西区

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