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【夕焼けエッセー】土筆

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【夕焼けエッセー】
土筆

 春、山里ではまだ桜のつぼみは固く、咲きほこるときを待っている。

 今日、妻は、ザルいっぱいの土筆(つくし)を摘んできた。山あいの日当たりのよい場所で太く長く育った土筆だ。自分は食さないが、妻の家では、毎春、家族で食べてきた春の食卓の味だという。この土筆も両親の食卓へ持っていく。一本一本、丁寧に「はかま」を取って、きれいにしていく。テレビを観(み)ながら、私は手伝わない。見ているだけの私に、妻は、手を動かしながら、昔のことをひとつひとつ思い出すように話しかけてくる。「うん、うん」「あーあー」と聞き流しているにもかかわらず、いっぱい喋(しゃべ)ってくる。でも、それがこの時間が、今の二人にとって、とても大切で貴重なモノに思えてくる。

 12年前に難病を患い、4、5年先には、自力歩行ができなくなるかもしれないという不安の中で生きている。それでも、妻との何でもない時が、いとおしくて仕方ない。

 限られた時間は、ふつうにふつうに過ぎていく。このふつうが一番だと、今、思う。

 日常のひとコマひとコマが、幸せであると。旬まっさかりの土筆から強い力をいただいてみようと、妻の炊く土筆を、今年は食してみようと。

 山里の桜も、もうすぐ咲き始めるであろう。

 梅と桜の饗宴も、もう間近だ。

 土筆を食べて、春を迎えてみよう。

中野吉長(よしたけ)(62)三重県津市

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