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【関西プチ遺産】巍々とした石垣がさみしく残る新宮城跡

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【関西プチ遺産】
巍々とした石垣がさみしく残る新宮城跡

石垣のみが残る新宮城=和歌山県新宮市 石垣のみが残る新宮城=和歌山県新宮市

 熊野川河口の右岸丘陵上に新宮城は構築された。眼下には熊野の大河がゆったりと流れ、東方に太平洋が広がる風景は絵物語のようである。

 平安時代末、この丘の屋敷で源為義(みなもとのためよし)の娘・丹鶴姫(たんかくひめ)が育ったため、丹鶴山と名付けられ、後に新宮城も丹鶴城と呼ばれるようになる。

 関ケ原の合戦(1600年)の翌年、徳川家康は浅野幸長(よしなが)を紀伊に入国させ、幸長の次男・忠吉(ただよし)が新宮に入り築城に着手したという。忠吉の城は元和(げんな)元(1615)年の一国一城令によって取り壊されたが、その後再建が許可される。元和5年には浅野氏に代わり水野重仲(しげなか)が新宮に入り工事を継続、寛永10(1633)年、新しい新宮城が完成した。

 新宮城については、砲術家・阪本天山(てんざん)が寛政10(1798)年12月から翌年にかけて和歌山・太地から伊勢神宮へ旅した際の記録『紀南遊嚢(きなんゆうのう)』に記されている。「新宮城は小なれども、城楼三重二重に厳然として、石垣も巍々(ぎぎ)たり。外一層は水塹(すいざん)にて、内は空堀。二ノ郭より内は少しの山に拠て、縄張したる城なり。巽(南東)の隅に水門も一ヶ所あり」とある。

 新宮の中心であった城も、明治4(1871)年の廃藩置県で廃城となり、8年には本丸・二の丸など全ての建物が解体された。城跡は民地となり小公園になっていた時期もあったが、昭和54年にようやく公有地化された。

 城跡には巍々とした(=高くそびえる)石垣がさみしく残っている。(伊藤純)

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