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【とん堀幻視行(1)】司馬さんも見つめた「太陽の庭」 大坂城公園から

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【とん堀幻視行(1)】
司馬さんも見つめた「太陽の庭」 大坂城公園から

上町台地に建てられた大阪城。古代、台地の西側(写真正面)では、海の民が暮らしていた。いま、「ミナミ」と呼ばれている(本社ヘリから、門井聡撮影) 上町台地に建てられた大阪城。古代、台地の西側(写真正面)では、海の民が暮らしていた。いま、「ミナミ」と呼ばれている(本社ヘリから、門井聡撮影)

 「私どもは、思うことができる。この駅に立てば、台地のかなたに渚(なぎさ)があったことを。遠い光のなかで波がうちよせ、漁人(いさりびと)が網を打ち、浜の女(め)らが藻塩(もしお)を焼いていたことども」

 司馬遼太郎のエッセー「大阪城公園駅」の一節である。かつて、この駅の改札口の上の壁面をなにげなく見あげたとき、司馬の自筆で書かれているのに気づいた。

 午後遅く、ひさしぶりに降りたち、ふりあおぐと、エッセーはまだあった。駅舎から眺めると、沈む陽(ひ)がいやにあかい。左手には大阪城がおもちゃ箱のようにボコッと浮かび、右手には大阪ビジネスパークのビル群が目もくらむような高さでかしいでいた。

 ここは、大阪平野を北に向かってナマコのように迫(せ)り出した上町台地の先端部分にあたる。紀元3~4世紀ころまで、台地の西側に沿って難波砂堆(さたい)が徐々に玉砂をかさねていった。東側は河内「湾」をへて、河内「湖」になりつつあった。

 御堂筋のあたりが海岸線で、司馬のエッセーはそのころをイメージしたものであろう。網を打つ「漁人」や、藻塩を焼く「浜の女」の多くは、朝鮮半島などからの渡来人であった。

■ ■ ■

 「なにわ」というコトバを考えるさい、この渡来人が大きなポイントとなる。「浪速」や「浪花」「浪華」「難波」などと書かれる「なにわ」は、茅渟(ちぬ)の海(大阪湾)が魚がたくさんとれることから「魚(な)の庭(にわ)」と呼ばれ、それが「なにわ」になったという説がある。俗説であろう。

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