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【正木利和のスポカル】挫折を経て本物になった文人画家の先駆け、柳沢淇園のこだわり

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【正木利和のスポカル】
挫折を経て本物になった文人画家の先駆け、柳沢淇園のこだわり

柳沢淇園「睡童子図」(部分図、個人蔵) 柳沢淇園「睡童子図」(部分図、個人蔵)

 文人画の魅力は、その素人っぽさ(アマチュアリズム)にある。

 富岡鉄斎(1836~1924年)の絵などを見れば、その意味がわかるのではないか。

 たとえば兵庫県宝塚市にある鉄斎美術館の六曲一双の屏風(びょうぶ)、「青緑山水図」。鉄斎77歳のときのこの絵は、圧倒的な自然の雄大さを描いた作だが、その賛がいい。

 左隻左上に書かれている賛には、なぜ学者の自分が絵を描くのか、ということが記されている。

 そこには、あくまで自分は余技として「遊戯」で描いている、とある。

 鉄斎には描き損じがなかったといわれているが、それは人さまに見せるためではなく、自分の手すさびとして描いたせいだからだ。

 その手すさびが、職業画家の絵にはない自由さやおおらかさという「味」をもたらした。

 元来、中国の伝統的な「文人」は教養をもち、詩文をよくした士大夫階級を指した。彼らが詩を作ったり、書をしたためたりするのと同じように描いた趣味の絵こそ、「文人画」のルーツなのである。

 それは、職業画家とは異なった、アマチュアとしての「うぶ」な点が味わいとなり、鑑賞の対象になっていった。

 中国・宋代以降、盛んになった文人画は室町時代に日本に入ったが、この国で隆盛を迎えるのは江戸時代になってからのことだ。

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 江戸期の文人画の先駆けといわれる「柳沢淇園」(やなぎさわきえん=1703~58年)の優品を集めた展覧会が、奈良市学園前の大和文華館(http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/)で開かれている。

 この人も、当時の士大夫階級に属した。

▼「大和文華館」の公式サイト(外部サイト:http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/ )

 華やかなりし元禄期、徳川幕府で将軍の側用人として権勢を誇った柳沢吉保(1658~1714年)の筆頭家老の家に生まれた。あの文人画家、池大雅(1723~76年)ら、一風変わった人物を紹介した当時の本「近世畸人(きじん)伝」によると、人の師匠となれるほどの芸事は16もあったとされる。

 いわば、早熟多才の人だった。なかでも、画才に恵まれたようである。ときの幕府御用絵師集団の狩野派を批判し、明・清の絵画の影響を受けた緻密な長崎派の絵画を学んだ。

 鎖国していた当時の日本の時代背景を考えたとき、淇園という人がいかに「ハイカラ」であったかがわかるだろう。儒教にしろ、絵画にしろ、中国の文物はそのころのモードの先端だった。彼はそうした新しい舶来ものの善しあしを判断できる力をもちあわせていた。彼の絵が一般に知られる「文人画」と趣が異なるのは、そのあたりに理由があるのかもしれない。

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