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【維新150年 大阪の痕跡を歩く】楠公ゆかりの河内勢も合流「尊攘運動」の地で起きた「天誅組の変」…時勢には乗ったが

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【維新150年 大阪の痕跡を歩く】
楠公ゆかりの河内勢も合流「尊攘運動」の地で起きた「天誅組の変」…時勢には乗ったが

天誅組の河内グループが合流した水郡邸表門。大阪府指定の史跡でもある=大阪府富田林市(彦野公太郎撮影) 天誅組の河内グループが合流した水郡邸表門。大阪府指定の史跡でもある=大阪府富田林市(彦野公太郎撮影)

 夜半に水郡邸を出た一行は三日市の宿、油屋(現・河内長野市三日市町)で朝を迎え、観心寺(同市寺元)とその境内にある正成の首塚を参拝する。境内奥には後村上天皇陵もあり、南朝ゆかりの寺である。倒幕を誓う勤王志士らは、大いに士気を高めたに違いない。

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 8月17日、千早峠を越えた天誅組は大和国に入り、挙兵する。幕府の五條代官所を襲い、わずか1時間あまりの戦闘で代官以下5人を殺害。桜井寺に本陣を構え、「御政府」の樹立を宣言したが、すぐに悲劇が訪れた。京で起きた「8月18日の政変」だ。たった1日で朝敵となった天誅組は約40日間、大和国内を転戦するが、1万を超す幕府軍の前に壊滅。辛くも脱出した中山も翌年11月、潜伏先の長州で暗殺された。

 草村さんは言う。「天誅組は烏合(うごう)の衆(しゅう)といわれるが、メンバーの多くは時代を代表する学者や宗教家の知識人。時勢はたしかに彼らにあった。クーデターまで予測できなかったところに彼らの不幸があった」(今村義明)

 8月18日の政変 文久3(1863)年8月18日、会津藩や薩摩藩を中心とする公武合体派が中川宮朝彦親王を擁し、長州藩と尊皇攘夷派の志士、攘夷急進派の公家を京から追放したクーデター。両藩の藩兵らが御所を固めるなか、長州藩は三条実美(さねとみ)ら失脚した公家7人を伴って都を落ちた(七卿落ち)。大和行幸は中止となり、以後、京での尊攘運動は一時後退した。

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