産経WEST

【維新150年 大阪の痕跡を歩く】楠公ゆかりの河内勢も合流「尊攘運動」の地で起きた「天誅組の変」…時勢には乗ったが

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【維新150年 大阪の痕跡を歩く】
楠公ゆかりの河内勢も合流「尊攘運動」の地で起きた「天誅組の変」…時勢には乗ったが

天誅組の河内グループが合流した水郡邸表門。大阪府指定の史跡でもある=大阪府富田林市(彦野公太郎撮影) 天誅組の河内グループが合流した水郡邸表門。大阪府指定の史跡でもある=大阪府富田林市(彦野公太郎撮影)

 尊皇攘夷派による過激事件を振り返るとき、時代が早すぎたとか、戦略が拙速だったとかいう評価がよくなされる。だが、尊攘思想が沸騰する当時にあって、1つの運動が次の運動を呼び、その連鎖が維新につながったという幕末史の側面は否定できない。

 幕府に対する最初の武装蜂起、「天誅(てんちゅう)組の変」はそうした意味でも倒幕・維新の魁(さきがけ)と位置づけられる。大和・五條(奈良県)で蜂起したため大和の事件の印象があるが、その行軍ルートと河内派と呼ばれるグループが参加したことから、その痕跡は大阪にも多い。

 文久3(1863)年8月14日、京の方広寺に、急進的攘夷派公家の前侍従、中山忠光(ただみつ)を主将に、吉村寅太郎(とらたろう)=土佐脱藩=ら攘夷派浪士39人が集結した。天誅組の旗揚げである。

 この年、長州藩と攘夷派公家が朝廷の主導権を握り、幕府はその圧力に屈する格好で将軍徳川家茂(いえもち)が上洛、攘夷決行を約束させられた。そして8月13日、天皇による大和行幸(ぎょうこう)、攘夷親征の詔勅(しょうちょく)が出ると、中山らはこれを打倒幕府への軍事行動ととらえ、自らはその先鋒(せんぽう)、露払いとして京を発進した。

 一行は伏見から淀川を下ると、大坂・土佐堀川の常安橋南詰にある船宿で休憩、武具などを調達する。船を乗り換え、京を出て2日目の朝、堺に到着。現在の堺市堺区栄橋町辺りで、土居川沿いの遊歩道には「天誅組堺上陸の地」の碑が建つ。

続きを読む

このニュースの写真

  • 楠公ゆかりの河内勢も合流「尊攘運動」の地で起きた「天誅組の変」…時勢には乗ったが
  • 楠公ゆかりの河内勢も合流「尊攘運動」の地で起きた「天誅組の変」…時勢には乗ったが

「産経WEST」のランキング