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【本能寺の変】孤立の光秀、かつての主君・義昭を戴くしかなかった? 傀儡から黒幕へ、「室町幕府の権威」再評価の動きも

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【本能寺の変】
孤立の光秀、かつての主君・義昭を戴くしかなかった? 傀儡から黒幕へ、「室町幕府の権威」再評価の動きも

明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治にあてた手紙の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治にあてた手紙の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵)

 明智光秀が本能寺の変に踏み切った理由についてはかつて、信長に辱められた「怨恨(えんこん)説」や天下取りの「野望説」など、個人的な視点で理解されていた。しかし近年は研究が進み、織田政権内部の対立や戦国大名らとの関係の中で発生したとの解釈が重視されるようになってきている。

 3年前、岡山市の林原美術館での石谷家(いしがいけ)文書の発見は、信長が四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏への対応を変更したことを機に、長宗我部氏との交渉担当だった光秀が面目を失い、進退窮まって変を起こしたとする「四国説」を浮上させることとなった。

 さらに今回の書状から、光秀は最終的に足利義昭との連携を構想していたと読むことができる。本能寺の変のあと、光秀は畿内や安土城のある近江の平定を目指したが、頼みとする細川藤孝(幽斎)や筒井順慶は協力を断ってきていた。

 孤立状態の光秀としては、かつての主君でもあった義昭を戴(いただ)いて、毛利氏や長宗我部氏らの協力も得た政権を目指すしかなかったのだろう。義昭については従来、「信長の傀儡(かいらい)」としか見られていなかったが、その力を再評価する動きも出ている。

 とはいえ、今回の書状は「山崎の合戦」前日という逼迫(ひっぱく)した中で書かれており、本能寺の変の前に、義昭との間で綿密な打ち合わせがあったとまでは証明されたわけでない。「義昭黒幕説」で決着とはいかず、変の「なぜ」を問う議論は今後も続くだろう。

(客員論説委員 渡部裕明)

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