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石田三成「関ケ原」前年には決戦視野か、武闘派を召し抱え

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石田三成「関ケ原」前年には決戦視野か、武闘派を召し抱え

「下野国檀那之事」(神宮文庫蔵、県立博物館提供) 「下野国檀那之事」(神宮文庫蔵、県立博物館提供)

 滋賀ゆかりの戦国武将、石田三成が関ケ原の戦い(1600年)の前年に関東の名家・宇都宮氏の一族、芳賀高武を召し抱え、居城の佐和山城(彦根市)に入れていたことが栃木県立博物館(宇都宮市)の調査で判明した。高武は武闘派の武将として知られており三成が1年も前から徳川家康との“最終決戦”を視野に準備を進めていたことが分かるという。

 滋賀県内もロケ地となった映画「関ケ原」が公開されるなど三成への注目が高まるなか、三成の戦略性の高さを示すものとして注目されそうだ。

 同館によると、宇都宮氏に関する企画展に向け伊勢神宮の神職、佐八(そうち)氏による「下野国檀那之事(だんなのこと)」を調査し分かった。

 宇都宮氏は豊臣秀吉によって取り潰され、浪人となった高武は他家の部隊で朝鮮出兵に従軍。「下野国檀那之事」によると、1599年、帰国した高武は三成の家臣となり、佐和山城に入った。伊勢神宮に出した願文など当時の史料とも整合しているという。

 当時の三成は、秀吉や前田利家の死去で後ろ盾を失い、諸将との対立で中央政界を追放されていた時期。失意の中、次の戦略も見据え、「武功もよのつねならぬ」(秋田藩家蔵文書)と評された高武に期待したとみられる。

 高武は宇都宮氏の再興を目指す考えがあったとされるが、その高武を家臣としたことに、同館学芸部長の江田郁夫さんは「冷徹なイメージの三成だが、面倒見が良く、意外な一面も見える」と話す。

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