産経WEST

【石野伸子の読み直し浪花女】井上靖の大阪(2)特別な愛情「通夜の客」 疎開先の山村を舞台に、詩を小説に

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【石野伸子の読み直し浪花女】
井上靖の大阪(2)特別な愛情「通夜の客」 疎開先の山村を舞台に、詩を小説に

大阪・茨木の自宅前で父・井上靖に抱かれる長女いくよさん(浦城いくよ氏提供) 大阪・茨木の自宅前で父・井上靖に抱かれる長女いくよさん(浦城いくよ氏提供)

 昭和20(1945)年6月、井上靖は妻と子供4人を鳥取県の山奥の福栄村(現・日南町)に疎開させた。

 本来は別の親類が疎開するために見つけてきた場所だったが、激化する戦火に都会(大阪)に住むことに不安を抱いた井上が、現地を下見してすぐに決断した。

 妻は産後まもない体で、慣れない山奥の暮らしは苦労の連続だったようだが、井上にとっては浮世から離れた山村がよほど印象的だったか、何度か作品の舞台に登場させている。

 「高原」「野分」といった詩、昭和24年12月別冊文芸春秋に発表した「通夜の客」、昭和26年10月「新潮」に発表した「ある偽作家の生涯」などで重要な舞台に設定している。

 「通夜の客」は井上靖の出世作「猟銃」(文学界24年10月号)、「闘牛」(文学界24年12月号)とほぼ同時期に「別冊文芸春秋」に発表された作品だ。初期の代表作のひとつで、井上も「作者としては特別な愛情を持っている作品」と話している。

 戦争が終わって数年後。新聞社の東亜部長として活躍した新津礼作の通夜が行われている。新津は戦前、新聞社きっての論客だったが戦後、自ら戦争責任をとるという形で退社し、焼け残った東京の自宅に妻子を残したまま、鳥取県の山奥に引っ込んだ。「3年間百姓をやるんだ」と宣言して。その言葉通り、音信不通を続けていたが、4年半が過ぎたころひょっこり新聞社に現れ、かつての仲間たちと痛飲した。

 その夜、脳出血で倒れ、急逝する。見事な生き方を通した男の死を悼む空気が強い通夜の席に、見知らぬ若い女性が現れる。静かに焼香して消えた女は実は新津と山奥で一緒に暮らした愛人で、以後、この水島きよという女性の独白で物語が進む。

 きよは、16歳のとき柳橋で置き屋をやっている伯母のところで新津と出会った。女遊びにたけた新津と淡い関係をもつが、戦後、山にこもるという男に強くひかれ、後を追う。新津は追ってきたきよを拒否しなかった。

 しかし、新津は美しい妻と子供たちに会いに、ときおり山を下りていく。その姿に激しい嫉妬を感じながら、きよはまた再び山に帰ってきた男との暮らしに埋没する。

 「天に近い、天体の植民地のような村の、悲しみも喜びもみんな揮発してゆくような虚しさは、お互いに口に出したことはありませんでしたが、私もあなたも身に沁みて味わっている筈でごさいます。こうした自然だったからこそ、私はあなたとの愛情を、曲がりなりにも、育てることができたのかもしれません

続きを読む

関連ニュース

「産経WEST」のランキング