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【田辺三菱製薬の祖「天命」田邊屋五兵衞(6)】道修町への道 薬のまちに看板を

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【田辺三菱製薬の祖「天命」田邊屋五兵衞(6)】
道修町への道 薬のまちに看板を

道修町を象徴する神農さん「少彦名(すくなひこな)神社」 =大阪市中央区道修町 道修町を象徴する神農さん「少彦名(すくなひこな)神社」 =大阪市中央区道修町

▼(5)今でいう宮内庁御用達、300年企業の礎を…から続く

 土佐堀から道修町(どしょうまち)へ-。田邊(たなべ)屋が薬を商う以上、「くすりのまち道修町」への進出は、初代以来の目標だった。メインストリートの道修町通には21世紀の今も、多くの医薬品関連企業が軒を並べている。世界でも珍しい薬業の町だ。

 発祥は戦国時代、豊臣秀吉が大坂城の城下町を造った頃とされる。最も古い記録は明暦4(1658)年の「似せ薬取り締まり」に関する文書で33軒の薬種商の署名捺印(なついん)がある。初代五兵衞の創業は延宝6(1678)年で、そのころにはすでに道修町の原形はできていた。ただし、現在のような薬の町になるのは享保7(1722)年、徳川8代将軍吉宗の時代に「薬種中買株仲間」が公認されて以降である。幕府が薬種取引の統制を図ったのだ。

 くしくもこの年、初代五兵衞が没。田邊屋の経営は娘婿である二代五兵衞に引き継がれていた。

 当時の大坂は「諸国之台所」と呼ばれ、物流・経済の中心地として発展していた。全国の物産品は一度大坂に集まり、売買されて全国へと出荷される。薬も同様で、特に長崎に輸入された「唐薬」はそのほとんどが道修町に集まった。株仲間の薬種商が、その薬を検査して適正価格を付け、全国に供給する仕事を独占していたのだ。

 そうした大きな特権を持つ一方で、課せられた制限も厳しかった。株仲間は必ず道修町1~3丁目に住まねばならず、当初124株が公認されたが、寛政11(1799)年に5株の増加が初めて認められるまで、長く株数は固定されたままだったのである。

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