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【維新150年 大阪の痕跡を歩く】兵力優勢なのに“敵前逃亡”…最後の将軍に捨てられた「大坂城」で起きた“悲劇”

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【維新150年 大阪の痕跡を歩く】
兵力優勢なのに“敵前逃亡”…最後の将軍に捨てられた「大坂城」で起きた“悲劇”

西から望む大阪城の南外堀。幕末の混乱で多くの櫓(やぐら)が焼け、裸の石垣にその痕跡が残る(宮沢宗士郎撮影) 西から望む大阪城の南外堀。幕末の混乱で多くの櫓(やぐら)が焼け、裸の石垣にその痕跡が残る(宮沢宗士郎撮影)

 宮本副主幹は「慶喜は自分を客観視できる政治家。軍事的には十分に勝算はあったはずだが、政治的に消耗戦になるとみて、急速に自信を喪失したのではないか。慶喜が政権奪回の意欲をなくし、城を棄(す)てたこのときこそ、徳川幕府の最期だった」と話すのだが。

 玉造口を出て遊歩道を歩く。公園の南端、「ピースおおさか」西側の木立の中にひっそりと佇(たたず)む古い塚がある。「城中焼亡埋骨墳」。建てたのは薩摩と長州の藩兵ら。本丸鎮火後、自刃した幕府軍の将兵に敬意を払い、遺骨を集め城内に埋葬したという。市民から「残念塚」と呼ばれ、今も供花が絶えることはない。(今村義明)

 鳥羽伏見の戦い 慶応3(1867)年10月14日、薩摩、長州両藩が倒幕を企てるなか、将軍徳川慶喜は先手を打つかたちで政権を朝廷に返上(大政奉還)した。新体制になってもなお主導的立場を維持できるとの思惑だったが、これに対し薩長は新体制から慶喜を完全に排除するため12月9日、王政復古の大号令を発し、次いで辞官納地の勅命を突きつけた。旧幕府側はこの決定を覆そうとして1万5千の兵力で武装上洛を決行、慶応4年1月3日、京都南郊の鳥羽街道、伏見で新政府軍と衝突した。旧幕府側の敗北となるが、以降、戊辰戦争へと突入する。

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 150年前の慶応3年10月、徳川慶喜が大政奉還した。封建社会が崩壊し、近代社会へと日本が生まれ変わろうとしていた幕末・維新。強烈なエネルギーがほとばしっていたのは京都、江戸、長崎だけではない。大阪にもあった激動の歴史舞台を訪ね歩く。

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