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【維新150年 大阪の痕跡を歩く】兵力優勢なのに“敵前逃亡”…最後の将軍に捨てられた「大坂城」で起きた“悲劇”

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【維新150年 大阪の痕跡を歩く】
兵力優勢なのに“敵前逃亡”…最後の将軍に捨てられた「大坂城」で起きた“悲劇”

西から望む大阪城の南外堀。幕末の混乱で多くの櫓(やぐら)が焼け、裸の石垣にその痕跡が残る(宮沢宗士郎撮影) 西から望む大阪城の南外堀。幕末の混乱で多くの櫓(やぐら)が焼け、裸の石垣にその痕跡が残る(宮沢宗士郎撮影)

 梅雨の晴れ間、大阪城公園(大阪市中央区)は新緑の中を散策する市民や観光客でにぎわっていた。スロープを登り、桜門から本丸に入ると目の前に天守閣が聳(そび)える。その威容に訪日客らがカメラを向ける。天守閣前広場には売店やファストフードのミニバンが連なり、ここにも長い列ができていた。

 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川幕府によって再建された直轄の城。歴代将軍が大坂城の城主だった。150年前、その巨大城郭が再び悲劇の城になったこと、同時に江戸幕府終焉(しゅうえん)の地になったことを、今のにぎわいから、どう想像したらいいのだろうか。

 慶応4(1868)年1月3日、旧幕府軍と新政府軍が衝突。この鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍は再起を期して大坂城に撤退した。総大将は15代将軍、徳川慶喜。緒戦で敗れたとはいえ、新政府軍をしのぐ1万5千の兵力を誇った。6日には、主戦論に沸く城内で慶喜は徹底抗戦の檄(げき)を飛ばす。場所は本丸御殿の大広間だっただろうか。観光客が憩うあの広場のあたりだ。

 その慶喜が、なんとその日の夜、ひそかに城を脱出した。従ったのは前京都守護職の松平容保(かたもり)、前京都所司代の松平定敬(さだあき)、老中の板倉勝静(かつきよ)ら幹部のみ。「江戸に戻り、関東に割拠して抗戦する」とでも言ったのか、夜陰に紛れて京橋口を抜け、天満八軒家から川船に乗り込み、天保山に停泊中の軍艦で江戸に帰ってしまった。

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