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【薬種商「天命」田邊屋五兵衞(3)】
島津ゆかりの「たなべや薬」 関ケ原退却の恩賞
「当社の事業が興ったのは、今から三百五年前、延宝6年(1678)のことである。その歳、初代田邊(たなべ)屋五兵衞が合薬(あいぐすり)の製造販売を家業として、大坂・土佐堀の地に独立開業したのであった」
昭和58(1983)年発行の「田辺製薬三百五年史」にはこうある。田辺三菱製薬の創業は、この初代五兵衞が売り出した「たなべや薬」に始まった。さまざまな生薬を配合した薬で、まさに製薬会社としての原点といえるが、謎が一つあった。
なぜ初代五兵衞は薬の調合販売ができたのか。
そのルーツは、祖父にあたる田邊屋又左衞門にあったようだ。又左衞門は戦国時代に朱印船貿易を手がけた豪商で、薩摩の島津家と関わりが深かった。
「関ケ原の敗戦の後、大将の島津義弘が薩摩へと撤退する『島津退(の)き口』が有名ですが、それを助けた大坂商人というのがどうも田邊一族らしいのです」と言うのは田邊家の歴史に詳しい広報部の乾俊秀さん。
「島津退き口」とは、戦国史上に残る激烈な撤退戦法で知られる。関ケ原で周囲を敵に囲まれた島津軍が決死の覚悟で正面突破し、多大な犠牲を出しながら退却。大坂に逃れ、船を調達して堺から船出する際には大坂城の人質となっていた妻らも救出し、無事に薩摩に帰国したのだった。
島津家文書など多くの資料に「大坂・堺商人の協力で危機を脱した」との記述があり、田邊屋道與(どうよ)(又左衞門の父か?)という商人が「大雨の中、女の乗り物で義弘を出迎えた」「御内室(妻)を大坂の屋敷から隠出し船出させた」と記す島津側の覚書も残されている。