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【田淵幸一物語・第4部(6)】田淵を変えたアメリカンノック

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【田淵幸一物語・第4部(6)】
田淵を変えたアメリカンノック

田淵を甦らせた西武・根本監督。「恩師」と仰ぐ一人だ 田淵を甦らせた西武・根本監督。「恩師」と仰ぐ一人だ

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 田淵には2人の「恩師」がいる。一人は法政一高-法大で7年間、指導を受けた松永怜一。野球の何たるかを教わった。そしてもう一人が根本陸夫である。

 「根本さんが西武の監督でなければ、オレはあのとき野球を辞めていた。根本さんに田淵幸一という野球人を作り替えてもらったと思う」

 昭和53年10月、西武ライオンズの初代監督となった根本は「チームを劇的に変えるとき、人を変えるのが一番」と成績の下降気味になった各球団の「スター選手」の獲得に乗り出した。ロッテからは山崎裕之と自由契約となった野村克也を獲得。そして真弓、若菜ら期待の若手を放出してまで阪神・田淵の獲得に執念を燃やした。なぜ、そこまでして田淵を欲しがったのか。

 63年3月発行の「Number」(文藝春秋)で根本は田淵獲得の「真相」をこう語っている。

 「勝てるチームを作る。そのためには投打の両面で柱となり軸となる選手がいなくてはなりません。投の方には東尾修がいました。打つ方では他5球団を圧倒する選手が欲しい。それが田淵幸一でした。それとは別に田淵が持つ“打つ以上の能力”が欲しかった」

 《打つ以上の能力-って何だろう》

 54年、新生・根本西武の船出は厳しかった。なんと2分けを挟んで開幕12連敗。前期、最下位に終わった。田淵も開幕戦から「4番」を任されたが、打率2割4分6厘、ホームラン14本、36打点。守備位置は「捕手」「一塁」「指名打者」と目まぐるしく変わった。後期に入っても「打てない」「守れない」時期が続いた。そしてついに8月14日の阪急3回戦で田淵の姿がベンチから消えた。

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