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【田淵幸一物語・第3部(4)】「サンケイ」が消えた日

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【田淵幸一物語・第3部(4)】
「サンケイ」が消えた日

オープン戦のときには別所毅彦監督の胸にも「Sankei」の文字が オープン戦のときには別所毅彦監督の胸にも「Sankei」の文字が

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 勘のいい読者の方はもうお気づきだろう。前回の『広岡対談』の項で「アトムズ戦」と表記した。実はこの年、昭和44年シーズン開幕前の4月8日、「サンケイアトムズ」の呼称から「サンケイ」が消え「アトムズ」に変わったのである。

 国鉄が球団の経営権をサンケイ新聞とフジテレビへ譲渡することを発表したのは、昭和40年4月23日だった。5月10日「サンケイスワローズ」に呼称が変更された。

 当時のサンケイは弱いのなんの。初年度は44勝91敗5分け。首位巨人とは45・5ゲーム差をつけられるダントツの最下位だった。この年、第1回ドラフト会議が行われ11人を指名したが入団したのはたった2人だった。

 翌41年に「スワローズ」から「アトムズ」に変わり52勝78敗で大洋と並んで5位に浮上(巨人とは37ゲーム差)。42年には河合楽器からドラフト8位で入団した武上四郎が大活躍。新人最多の3度の1試合4安打を記録するなど、打率2割9分9厘、本塁打3本、打点27で阪神の江夏を抑えて「新人王」を獲得した。

 43年には石戸四六がチームで金田正一以来となるシーズン20勝を挙げ、64勝66敗4分けの4位。首位巨人とは3ゲーム差にまで迫った。だが、チームの浮上とは裏腹に球団経営は厳しくなる一方。44年、グループ事業見直しの一環として球団経営から撤退。「ヤクルト」へ譲渡したのである。

 ビジター用のユニホームの胸マークが「SANKEI」から「Yakult」に。産経社員にとって悲しい現実だった。

 悲しい出来事-といえば、この年の2月10日、阪急ブレーブスの小林米三オーナーが癌性腹膜炎のため入院先の大阪回生病院で亡くなった。享年59。なんとも早い別れだった。

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