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【田淵幸一物語・第2部(7)】名物スカウトのドラフト指名「直前変更」が、その後の補強戦略を揺るがした

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【田淵幸一物語・第2部(7)】
名物スカウトのドラフト指名「直前変更」が、その後の補強戦略を揺るがした

田淵家に指名挨拶にやって来た阪神・佐川スカウト(左)右から母親の花江さん、田淵、父親の綾男さん 田淵家に指名挨拶にやって来た阪神・佐川スカウト(左)右から母親の花江さん、田淵、父親の綾男さん

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 阪神の佐川スカウト(渉外担当課長)がたくさんの報道陣が集まる東京・目白の田淵宅へ「初めての挨拶」にやって来たのはドラフト会議の翌日11月13日の午後4時ごろだった。田淵家の反応は予想通り。

 「阪神へ行きたくないという気持ちは変わらない。今後何度交渉を受けても同じです」と憮然(ぶぜん)とした顔で田淵が応えれば、父・綾男も「本人の気持ちを尊重している。したがって阪神から誘われても考える余地がない。何度でも頭を下げて断るだけ」とけんもほろろだ。

 だが、佐川は「そのうち冷静になってもらえるだろう。せっせと通って誠意を示したい。江夏-田淵の黄金バッテリーは来年のうちの最大の売りですから」と落ち着いたもの。

 佐川にとってのドラフト交渉はいつも「難航」だった。昭和40年の第1回ドラフトで阪神は兵庫・育英高の鈴木啓示投手を1位指名する予定だったが、直前になって香川・土庄高の石床幹雄投手に変えた。四国銀行への就職が決まっていた石床を佐川が推した。そのときの「わたしのスカウト生命をかけて」という彼の言葉は阪神スカウト史の中でも“名言”とされている。

 内定といえばその年、2位で指名した市和歌山商の藤田平も明治大学への進学が決まっていた。

 余談だが、石床は入団後に慢性腎不全だったことがわかり、わずか5年のプロ生活で終わった。そして藤田に関しては佐川が「せっせと通い、誠意を見せて」口説き落としたが、明大・島岡吉郎監督の怒りを買い、以後明大とのルートは一切断たれた。

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