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【田淵幸一物語(2)】セ・リーグ初の4番捕手 「村山阪神」ほしかった!?明るい話題

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【田淵幸一物語(2)】
セ・リーグ初の4番捕手 「村山阪神」ほしかった!?明るい話題

球友決裂。昭和44年10月、阪神・村山実新監督(右)のコーチ就任要請を断った上田利治氏 球友決裂。昭和44年10月、阪神・村山実新監督(右)のコーチ就任要請を断った上田利治氏

 すでに「将来の監督候補」として上田自身もその周囲も村山の風下に立つことを良しとしなかった。そしてもうひとつ村山を苦しめたのが当時の阪神を巡る“悪評”だった。

 阪神では1年ごとに監督やコーチの首のすげ替えが行われた。「明確な理由づけもなくもなく追われる」という不信感が球界関係者の間で渦巻いていたのだ。

 「阪神の悪評の原因はいったいどこにあるのか。ワシは誰を恨んだらええんや。いつの間にか不評を作ってしまった。伝統が悪いのだろうか…」頭を抱える村山監督の写真とともに11月19日のスポーツ紙には一斉に『“村山丸”早くも暗礁へ』の大見出しが踊った。

村山監督宅への脅迫電話

 騒動はさらに続いた。年が明けた45年1月10日には兵庫県芦屋市精道町の村山監督宅に「吉田を退団させて監督になったのはけしからん!」「アンタが憎い。決闘しろ! いやなら家族を襲う」と“脅迫電話”がかかったのだ。

 このままではいけない…。新生村山阪神には、虎ファンが心躍る明るい話題が必要だった。そんな中で打ち出されたのが「四番・捕手・田淵」だった。昭和25年にプロ野球がセ、パ2リーグに分裂して以降、捕手で四番を打ったのは南海の野村克也ただ一人。

 《セ界初の四番・捕手》それが、2年目の田淵が村山監督から与えられた使命だったのである。(敬称略)                         

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