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【鹿間孝一のなにわ逍遙】阪田三吉、端歩も突いた 女房も泣かす将棋「王将」…実際は

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【鹿間孝一のなにわ逍遙】
阪田三吉、端歩も突いた 女房も泣かす将棋「王将」…実際は

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 大阪人は、将棋の阪田三吉(1870~1946年)が大好きである。

 わが自宅近くの墓苑に「王将阪田三吉」と刻まれた墓がある。墓石は将棋の駒の形をしているが、角がところどころ欠けている。お参りに来た人が、勝負事の御守りにと削っていくのだ。

 ほめられた行為ではないが、阪田への憧憬がそうさせるのだろう。

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 阪田は8歳ごろに将棋を覚え、縁台将棋で大人を負かした。以後は将棋一筋。無学で、生涯読み書きができなかった。これは事実のようだ。

 さらに、将棋盤は蹴飛ばすし、世話女房を泣かす…と、粗野で偏屈、乱暴者と思われているが、これは北條秀司原作の「王将」による。舞台や映画で大ヒットで、そのイメージが定着してしまった。

 あまりに実像と違うとして、弟子たちや支援者から名誉毀損(きそん)で訴えるべきだという声が上がったそうだ。が、阪田自身は「わしが死んだら、きっと芝居や活動写真にしよりまっせ」と言っていたというから、世間の評判は気にしなかったのだろう。

     ◇

 それよりも「打倒関東」が常に頭にあった。

 大山康晴十五世名人は関東と関西の将棋の違いをこう解説する。

 「関西は実戦で鍛えることが、プロの修業であった。昭和より大正・明治・江戸時代と、時代が古くなれば古くなるほど、定跡を勉強するよりも『実戦で鍛える』という風潮が強かった。そうした風土のちがいが、東京方とはやや異なった大阪将棋を産み出してきた。東京の理論将棋に対して大阪は力将棋の本場とされるのである」(『勝負強さの人間学』から)

 力将棋の代表が阪田だった。「参考書なしで、独りで創作した将棋」(升田幸三実力制第4代名人)である。

     ◇

 昭和12(1937)年2月、阪田は時の第一人者である木村義雄八段と京都の南禅寺で対戦した。世に言う「南禅寺の決戦」である。

 後手番の阪田は、初手で9四歩と右端の歩を突いた。後手で、しかも一手損になる前代未聞の奇手だった。

 だが、世間は阪田らしい「奇想天外」ともてはやした。阪田ファンだった作家の織田作之助は、新聞で端歩突きを知り、「阪田はやったぞ、阪田はやったぞ」と感激してつぶやいたという。

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