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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】倒幕(5)「公」を忘れた日本人へ 尊氏の翻心生んだ籠城戦

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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】
倒幕(5)「公」を忘れた日本人へ 尊氏の翻心生んだ籠城戦

六波羅探題址に立つ石碑。六波羅は正成が奮闘する間に攻め滅ぼされた=京都市東山区の六波羅蜜寺(恵守乾撮影) 六波羅探題址に立つ石碑。六波羅は正成が奮闘する間に攻め滅ぼされた=京都市東山区の六波羅蜜寺(恵守乾撮影)

 楠木正成が千早城で、鎌倉幕府の大軍と戦った日数は100日を超える。正成が奮戦する間に起こった変化を、湊川神社(神戸市)発行の『大楠公』はこう記す。

 <元弘三(1333)年閏(うるう)二月二四日、天皇、隠岐御脱出。二八日、名和長年、船上山に御迎へす>

 この変化に反応した1人が鎌倉幕府の有力御家人、足利高氏(あしかがたかうじ)(1305~1358年、後の尊氏)である。『大楠公』は、4月29日のこととしてこう書く。

 <足利高氏、帰順し、赤松則村・千種忠顕(ちぐさ・ただあき)・結城親光等と共に六波羅(ろくはら)を攻む>

 源氏の嫡流を自負する高氏は、正成より11歳若く、幕府に背いた時は数え29歳だった。この時の心境を『太平記』は、高氏の言葉として書いている。

 「われは源家累葉(るいよう)の貴族なり。(中略)重ねてなほ上洛の催促を加ふる程ならば、一家を尽くして上洛し、先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべきものを」

 幕府からの執拗(しつよう)な出陣命令に上京したものの、心はすでに、平氏である北条氏が率いる幕府を離れていたのである。高氏は、隠岐を脱出して伯耆(ほうき)国(現鳥取県)船上山にいた後醍醐天皇に使いを送り、朝敵追討の綸旨(りんじ)を得た。4月27日、伯耆に向けて出兵したが、山陽道に向かう途中、母の出身地、丹波篠村(現京都府亀岡市)に入った。

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