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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】倒幕(4)「公」を忘れた日本人へ 「悪党」躍動 鎌倉終焉の象徴

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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】
倒幕(4)「公」を忘れた日本人へ 「悪党」躍動 鎌倉終焉の象徴

千早城跡・四の丸に登る階段。幕府軍はこの傾斜を攻め上った=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影) 千早城跡・四の丸に登る階段。幕府軍はこの傾斜を攻め上った=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)

 この後は楠木軍略の独壇場である。大石を落として楯を砕き、散々に矢を浴びせて毎日、5、6千人の損害を与えた、と『太平記』は書く。幕府軍が持久戦の構えを見せると、わら人形を城壁に並べて払暁(ふつぎょう)、鬨(とき)の声を上げ、幕府軍を引きつけて大石や矢を浴びせた。幕府軍が長梯子で攻め入ろうとした際には、油を注いで火矢を放ち、兵ごと梯子を焼き落とした。

 「使えるものは何でも使うという戦いぶり。足利尊氏のような鎌倉武士には想像もつかない戦術で、正成が悪党と呼ばれる理由となる戦いだと思います」

 大阪樟蔭女子大の横田智鶴非常勤講師はそう話す。当時の悪党とは、従来の秩序を壊そうとする新しい勢力を指す。『太平記』が描く千早城の戦いは、鎌倉の世が終ろうとしていることを象徴するものだった。

 「知謀はもちろんだが、水や兵糧に困らなかったことが勝因でしょう」と、同村立郷土資料館の山本正夫館長は言う。水は城の内外に、山伏が秘密にしていた水源が5か所あり、一夜に5石(900リットル)が湧いたという。兵糧は、城の裏から金剛、吉野、熊野古道へと抜ける山道を使って紀州の中辺路(なかへち)・近露(ちかつゆ)の武士、野長瀬盛忠が運び入れた。その縁で同村は昭和57(1982)年、和歌山県中辺路町(現田辺市)と友好提携した。

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