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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】倒幕(3)「公」を忘れた日本人へ 幕府に対する「決死の心火」

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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】
倒幕(3)「公」を忘れた日本人へ 幕府に対する「決死の心火」

大阪府富田林市内から眺める上赤坂城跡(中央手前、恵守乾撮影) 大阪府富田林市内から眺める上赤坂城跡(中央手前、恵守乾撮影)

 〈諸国七道の軍勢八十万騎を三手に分け、吉野、赤坂、金剛山、三つの城へぞ向けられける〉

 楠木正成に天王寺の合戦で敗れた後の鎌倉幕府軍について、『太平記』はこう記す。全国から大軍を集め、大塔宮護良(おおとうみやもりよし)親王の籠もる吉野と、正成が築いた上赤坂城、千早城に向かったというのである。

 上赤坂城は正成の老臣、平野将監(しょうげん)が守り、正成は千早城にいた。楠木城とも呼ばれる楠木氏の本城、上赤坂城を『太平記』はこう説明する。

 <三方は、岸高くして屏風(びょうぶ)を立てたるが如し。南一方ばかりこそ、少し平地につきて細きを、広さ深さ十四、五丈(42~45メートル)に掘り切って、岸の額に塀を塗り、上に櫓(やぐら)をかき並べ>

 幕府の大軍は深い堀に走り下り、はい上がって城壁に取りつこうとした。楠木勢は矢の雨を降らせた。幕府軍は毎日、5、6千人の手負い、死人を出したが、<城はちつとも弱らず>と『太平記』は書く。

  

 城際に引き付け、大石を落とし、矢を散々に浴びせる。『太平記』が描く正成得意の戦法について、滋賀県立大の中井均教授は「あり得ること」と話す。

 「平安時代の合戦を描いた『後三年合戦絵詞(えことば)』には矢を射たり、石落としの場面があるが、実際に描いたのは南北朝時代の絵師。その時代の合戦を見聞きして描いた可能性が高い」

 幕府軍の被害については東洋史学者の故植村清二氏が著書の『楠木正成』で、元弘3(1333)年2月28日の大手への攻撃で、死傷者の総数が1800余人に上ったことを立証し、こう書いている。

 〈城兵の勇敢な防禦(ぼうぎょ)が攻撃軍に及ぼした精神的影響は、極めて強烈なものがあったに相違あるまい〉

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