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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】倒幕(2)「公」を忘れた日本人へ 鮮やか速攻 幕府軍を翻弄

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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】
倒幕(2)「公」を忘れた日本人へ 鮮やか速攻 幕府軍を翻弄

正成が幕府軍を破った四天王寺付近=大阪市天王寺区(本社から、恵守乾撮影) 正成が幕府軍を破った四天王寺付近=大阪市天王寺区(本社から、恵守乾撮影)

 東から矢戦を仕掛け、西からは突撃部隊が隊列を分断した。さらに南から現れた本隊が、鶴翼(かくよく)の陣で六波羅勢を包囲しようとした。六波羅勢は退路を断たれまいと敗走し、渡辺の橋で大混乱を見せて〈残り少なに討ちなされた〉。

 『楠木合戦注文』は、さらなる正成の凄(すご)みを伝えている。合戦から数日で、正成が兵を収めて葛城に戻ったというのだ。存在感を確実に示した上で、幕府の大軍とは地元の本城、上赤坂城と千早城で戦おうという戦略だった。

 「引き際の見極めがうまい。正成は、自分の判断で行動できる戦いでは、負けていない」

 尾谷氏はそう話す。同市在住の地域史研究家、堀内和明氏は、複数の古文書に見られる「楠木合戦」という表現に注目する。当時の戦いは「笠置合戦」など合戦場所を冠して表記されるのが通例。大将の名字を冠しているのは異例で、その事情を『立命館文学』にこう書いている。

 〈六波羅・幕府を翻弄しつつ内乱をリードする正成への驚嘆や畏怖、その巧妙な戦術に対する敬意すら感じられる〉

=次回(3)は17日に掲載

【用語解説】宮方についた武士 楠木正成の活躍で宮方についた武士に和田助康(すけやす)がいる。和泉国大鳥郡和田(みきた)庄(現堺市南区美木多付近)を本拠地とした御家人和田氏に関する『和田文書』では、元弘3(1333)年4月、和田氏は当主の助家が幕府軍に参加し、子の助康が護良(もりよし)親王側について六波羅攻めに加わったことがわかる。

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