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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】倒幕(2)「公」を忘れた日本人へ 鮮やか速攻 幕府軍を翻弄

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【戦後71年 楠木正成考<第4部>】
倒幕(2)「公」を忘れた日本人へ 鮮やか速攻 幕府軍を翻弄

正成が幕府軍を破った四天王寺付近=大阪市天王寺区(本社から、恵守乾撮影) 正成が幕府軍を破った四天王寺付近=大阪市天王寺区(本社から、恵守乾撮影)

 〈大楠公、湯浅定仏(じょうぶつ)を破り下赤坂城を奪還す〉

 挙兵から1カ月で楠木正成が、鎌倉幕府が河内に置いた地頭(じとう)を破ったことを、湊川神社(神戸市)発行の『大楠公』は記す。勝因はここでも奇策だった。

 城に兵糧を運ぶ敵勢を討って手勢の一部に成り代わらせ、それを楠木勢が追って見せた。定仏が味方と信じて城内に入れると、兵糧部隊は俵に隠した武具で蜂起し、定仏はなすすべなく降伏した。

 ここからの快進撃は東福寺の僧侶、良覚の筆とされる『楠木合戦注文』に詳述されている。

 〈一月一四日、河内野田の地頭を追ひ、池尻を略し、河内守護代を攻めて丹下入道を追ひ、和泉守護を破る〉

 〈一月一五日、陶器(とうき)左衛生門尉、中田、橘上(たちばなのうえ)等の地頭を遂(お)ふ〉

 わずか2日で河内、和泉の地頭や御家人を一掃した戦果を『太平記』はこう評する。

 〈和泉、河内の両国を推すに(押し寄せると)、靡(なび)かずと云ふ者一人もなし〉

 正成は、四天王寺(大阪市天王寺区)に進出。京・六波羅(ろくはら)から駆けつける幕府軍に備えて淀川河口、渡辺の橋の南に陣を敷いた、と『太平記』は書く。

 「(正成の速攻は)大坂から高野山に続く複数の高野街道を使っていたからでしょう。京からみれば、大坂と直結する淀川下流にまで正成が来ていると、心理的にはかなり近くに迫っていると感じたはずです」

 河内長野市立図書館地域文化遺産啓発専門員の尾谷雅彦氏はそう話す。『太平記』によると、駆けつけた六波羅勢は七千余騎。楠木勢は三百騎の小勢で、遠矢を射ただけで逃げ出した。六波羅勢が四天王寺近くまで追うと、正成率いる二千余騎が三手に分かれて待っていた。

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