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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】挙兵前夜(4)「公」を忘れた日本人へ 倒幕志し入山の天皇に呼応

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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】
挙兵前夜(4)「公」を忘れた日本人へ 倒幕志し入山の天皇に呼応

元弘の乱の緒戦が行われた笠置山=京都府笠置町(恵守乾撮影) 元弘の乱の緒戦が行われた笠置山=京都府笠置町(恵守乾撮影)

 「正成が河内で一定の軍事力を持っていたことは確かでしょう。笠置に入った後醍醐天皇にすぐに呼応して蜂起しており、『増鏡』のいうような存在だった可能性は高い」

 南山大の森田貴之准教授はそう指摘する。『増鏡』によると、正成は館の周りを固め、笠置が危ない時には別の場所への行幸も用意していたという。正成は、用意周到な武将として描かれている。

   ◇

 〈九月四日、大楠公、河内に帰り下赤坂城を築く〉

 拝謁後の正成について『大楠公』はそう書く。翌日には早々、山を下りたのだ。翌5日には幕府の大軍が鎌倉を進発し、28日には笠置山を攻撃して陥落させ、29日には天皇を、有王(ありおう)山(京都府井手町)近くで捕らえた。

 「正成のもとへ」と山中をさまよい、疲れ果てた後醍醐天皇は歌を詠んだと『太平記』は記す。

 〈さして行く笠置の山を出でしよりあめが下には隠れ家もなし〉

 この歌を刻んだ石碑「後醍醐天皇御舊蹟(きゅうせき)」が有王山近くの府道脇に残る。紀元2600年にあたる昭和15(1940)年の建立である。

 「一旦の勝負は、必ずしも御覧ぜらるべからず。正成未だ生きてありと聞こし召し候はば、聖運はつひに開かるべしと思し召し候へ」

 正成は下山する際、そう言い残したと『太平記』は書く。その言葉を頼りに、後醍醐天皇の不撓(ふとう)不屈の戦いが始まった。

   ◇

【用語解説】笠置山の戦い

 鎌倉幕府の倒幕運動「元弘の乱」の緒戦。元弘元(1331)年9月、後醍醐天皇の軍勢と鎌倉幕府軍が戦い、楠木正成もこれに呼応して河内・下赤坂城で挙兵した。

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