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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】挙兵前夜(3)「公」を忘れた日本人へ 晩婚の夫支えた母性の鑑(かがみ)

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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】
挙兵前夜(3)「公」を忘れた日本人へ 晩婚の夫支えた母性の鑑(かがみ)

四條畷神社の摂社、御妣神社。正行の母、つまりは正成の妻を祭っている=大阪府四條畷市(恵守乾撮影) 四條畷神社の摂社、御妣神社。正行の母、つまりは正成の妻を祭っている=大阪府四條畷市(恵守乾撮影)

▼(2)鎌倉幕府将兵より強かった正成…から続く

 〈元亨(げんこう)二年四月、御夫人を迎へる(御夫人の御名。滋子、久子等諸説あり)〉

 湊川神社(神戸市)発行の『大楠公』はそう記す。元亨2年は正成が摂津、紀伊、大和と連戦した年で、正成は数え29歳。当時としてはかなり晩婚である。

 「夫人は正成の死後も当寺の中院で暮らしたが、史料は残っていません。正成が長く、賊として扱われていたためでしょうか」

 楠木家の菩提(ぼだい)寺、中院が境内にある観心寺(大阪府河内長野市)の永島龍弘長老はそう話す。

 史料の少なさを示すように、『大楠公』もこう続ける。

 〈一説には藤原藤房の妹なりと言ひ、又他説には南江正忠の妹なりとも言ふ〉

     ◇

 正成の妻について『太平記』は、自害した正成の首を見て後を追おうとした嫡男・正行(まさつら)を諭す姿を描いている。

 「汝少(おさな)くとも、父が子ならば、これ程の理(ことわ)りにや迷ふべき。幼(いとけ)なき心にも、よくよく事の様を思ふべし」

 11歳の正行に、朝敵を滅ぼして天皇を安泰にし、父の遺恨を散じることこそ使命だと涙ながらに説き、さらにこう言った。

 「とてもなほ、ともかくもなるべくは、愁(う)き目を重ねて見せんより、われを先ず殺せや」

 どうしても自害するならまず、自分を殺せと迫る母に、正行は翻意したと『太平記』は書く。大阪樟蔭女子大の横田智鶴・非常勤講師は言う。

 「史料的なもので書き残された正成の妻の姿は、これが唯一です。そのために母親として様々な想像が広がったのでしょう」

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