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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】挙兵前夜(2)「公」を忘れた日本人へ 鳴り響く武名 勢力拡大

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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】
挙兵前夜(2)「公」を忘れた日本人へ 鳴り響く武名 勢力拡大

千早赤阪村上空から望む金剛山方向。正成の勢力はここから四隣に及んだ =大阪府千早赤阪村(本社ヘリから、恵守乾撮影) 千早赤阪村上空から望む金剛山方向。正成の勢力はここから四隣に及んだ =大阪府千早赤阪村(本社ヘリから、恵守乾撮影)

▼(1)非御家人や悪党ではなく「武家」…から続く

 〈元亨(げんこう)二年四月、大楠公、摂津渡辺右衛門尉・紀伊安田(保田)庄司・大和越智(おち)四郎を討伐〉

 湊川神社(神戸市)発行の『大楠公』は、楠木正成が越智邦永を討った後もなお、鎌倉幕府に反抗する勢力討伐に尽力したことを記す。元亨2年は1322年。正成が邦永を討って6年後、正成が数え29歳の年である。

 〈高時、河内国の住人、楠正成をして之を撃ち平けしむ〉

 江戸時代に編纂(へんさん)された『鎌倉将軍家譜』は、正成は執権・北条高時の命令で渡辺氏と戦ったと書いている。高時はさらに正成に、紀伊に軍勢を差し向けるよう命じる。安田庄司(湯浅氏)討伐については、9~18世紀の高野山の歴史をまとめた『高野春秋編年輯録(しゅうろく)』にも同様の記述がある。

 〈保田庄司、北條高時の命に叛(そむ)く。よりて楠木正成をして之を討ち亡ぼせしむ〉

 この功績で正成は高時から、湯浅氏の領地を恩賞として与えられたとされる。

     ◇

 大和の越智四郎を討伐した際の『鎌倉将軍家譜』の記述は興味深い。

 〈之を攻めるも利あらず。正成襲い撃ち、之を滅す〉

 最初は、京都の鎌倉幕府機関の六波羅探題(ろくはらたんだい)が派遣した将兵が攻めたが勝てず、正成が転戦して討伐したというのである。六波羅の弱体化ぶりが見て取れる。

 「史料には表れていないが、楠木氏が代々実力を培ってきたことがうかがえる」

 楠木氏の氏神、建水分(たけみくまり)神社(大阪府千早赤阪村)の禰宜(ねぎ)、岡山博美氏はそう話す。楠木氏は、正成の父、正遠(まさとお)(正康、正澄(まさずみ)とも)の代には、大和川の水運を支配し、河内を広範囲に勢力下に置いていた。

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