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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】挙兵前夜(1)「公」を忘れた日本人へ 幕府軍役に応じ反乱討伐

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【戦後71年 楠木正成考<第3部>】
挙兵前夜(1)「公」を忘れた日本人へ 幕府軍役に応じ反乱討伐

畝傍山の西側上空から見た貝吹山(中央。その左奥は高取山)=奈良県橿原市(本社ヘリから、恵守乾撮影) 畝傍山の西側上空から見た貝吹山(中央。その左奥は高取山)=奈良県橿原市(本社ヘリから、恵守乾撮影)

▼第2部(5)知と人が支えた「鉄壁の城」…から続く

 楠木正成の本拠地、南河内(大阪府)から金剛・葛城山を挟んで東側に広がる奈良県高取町。中世大和武士の越智(おち)氏の拠点である。

 〈正和五年四月七日、大楠公、幕命により越智邦永を伐(う)ち、邦永ら敗死する〉

 湊川神社(神戸市)発行の『大楠公』にそう書かれている。正和5年は1316年。後醍醐天皇が即位する2年前のことだ。

 越智氏に関する史料『大和国越智家系図』によると、邦永は北条得宗家(執権家)に所領を取り上げられたため反乱を起こした。京都の幕府機関、六波羅探題(ろくはらたんだい)は鎮圧のために近国の武士を集め、そのなかに正成もいた。正成は越智勢がわずかなのを見抜いて突進し、たちまち邦永を討ち取ったという。

 連載の第1部2回目で、楠木氏が得宗被官だった可能性を指摘したのは、この戦があったからである。

 「得宗家や幕府と関係がなければ、反逆的武士を討つコマには起用されないでしょう」

 独協大の新井孝重教授はそう話す。戦の記述は、これまで非御家人、悪党などと考えられてきた正成の出自が、歴とした武家だったことを示すものなのだ。

     ◇

 邦永を討った時、正成は数え23歳だった。父を亡くし、楠木家の当主となった翌年である。年齢からは血気盛んな鎌倉武士を想像させるが、越智勢の弱点を見抜く戦ぶりは冷静な人柄を感じさせる。

 「すでに大将としての教養と武術を身につけていたでしょうね。神仏を心の中心にすえているので、人の道から外れるようなことも生涯していませんから」

 楠木氏の菩提(ぼだい)寺で正成の学問所だった中院がある観心寺(大阪府河内長野市)の永島龍弘長老は、そう話す。

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