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【西論】「公」を忘れた日本人へ 「楠木正成考」で呪縛を解こう

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【西論】
「公」を忘れた日本人へ 「楠木正成考」で呪縛を解こう

石碑が立つ楠木公誕生地。正成が元服したのもここと推測される=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影) 石碑が立つ楠木公誕生地。正成が元服したのもここと推測される=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)

 義経から幸村に連なる日本3名将に入っている上に、日本3大改革の必要性を認識し、実現に尽力したことも正成の人気の理由ではないか-。そう指摘するのは作家の童門冬二氏である。3大改革とは大化の改新、建武の新政、明治維新のことだ。共通点は、政治面での時代の矛盾を解消して新たな世を開く手段として、王政復古を行ったことである。

 「天皇と国民が直結する政治スタイルが一番いい、安定するという価値観が読み取れます。摂関政治にしろ、幕府政治にしろ、天皇親政の時代以外は、公家や武士が両者の間に入って統治する形を取るが、いずれもやがて権力の乱用を始める。そしていずれの時も、その悪政を正すために注目されるのが天皇だというのが、日本史の面白いところです」

 童門氏はそう語る。正成は、この日本的思想の理解者だったのではないか、と筆者も思う。そうでなければ、足利尊氏の台頭後も劣勢の後醍醐天皇を裏切らず、戦術的な献策が公家たちに退けられても恨まず、絶望的な戦場に向かい、嫡子の正行に自分の死後も徹底抗戦するよう命じた理由が見つけられないからだ。

 さらに言えば、3名将の中で唯一、「公」意識が見られるのが正成である。義経は、源氏の再興のために、平清盛に敗れた父、義朝の無念を晴らすために武略を用いた。幸村は、衰微する豊臣家のために、自らの武名を後世に残すために、破格の服属条件を蹴って家康と戦った。ひとり正成だけが、親政を望む天皇のために家も子孫も投げ出して戦ったのである。武名と家の繁栄を何よりも求める武家には、あり得ない思考だが、そこに現代に通じる「公」意識が見えるような気がする。

 ◆地元・河内が知る合理主義

 正成は戦前、道徳を説く教科書に必ず載っていた。戦後は歴史の教科書でわずかに触れられる程度である。

 〈歴史上最も忠義を貫いた希代の名将〉

 童門氏は正成をそう評する。忠臣イメージは戦時中、特攻作戦が、正成の家紋から取った「菊水作戦」と名づけられるなど、利用された。正成の最期の湊川の戦が玉砕覚悟の状況で行われたからである。しかし、正成が無駄な犠牲を嫌う合理主義者だったことは、地元・河内の人たちが戦時中からよく知っていた。

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