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【西論】「公」を忘れた日本人へ 「楠木正成考」で呪縛を解こう

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【西論】
「公」を忘れた日本人へ 「楠木正成考」で呪縛を解こう

石碑が立つ楠木公誕生地。正成が元服したのもここと推測される=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影) 石碑が立つ楠木公誕生地。正成が元服したのもここと推測される=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)

 大阪樟蔭女子大などを運営する学校法人・樟蔭学園(東大阪市)の校名は「樟(くす)の余芳(よほう)の蔭」から命名されている。楠木正成夫人の残した遺徳にあやかるという意味が込められている。

 創立は大正6(1917)年。その理念をこう公表している。

 〈夫、正成の死後も長男正行(まさつら)をはじめとする6人の子どもを立派に育て上げたお久の方を偲(しの)び、前途有為な若者への創立者の深い愛情と、成長への願いが込められています

 大正は南北朝時代の武将、楠木正成がとりわけ注目され、人気を集めた時代である。たとえば講談社発行の雑誌『少年倶楽部』の11年1月号に偉人投票の結果が載っているが、正成は4位に入っている。ちなみに1位はナポレオン、2位は乃木希典、3位は豊臣秀吉だった。

 正成は、後醍醐天皇の信任を受け、巧みな兵法と知略で建武の新政を成し遂げた武将である。その文武に長(た)けた生涯が、大正デモクラシーの世でも国民の人気を得ていたことは興味深い。

 ◆名将であり改革者

 正成の人気を支えたものとして筆者は、日本人の名将意識を挙げたい。一言で言えば、寡を以(もっ)て衆を討つ武将。これが日本人はたまらなく好きなのだ。

 その原型はおそらく源義経であろう。騎馬集団による奇襲で平家の大軍を何度も破った義経は戦上手として、悲劇的な最期に同情する「判官びいき」の感情と共に、日本人の記憶に留(とど)まっている。

 正成は次代の名将である。河内・千早赤阪の天険を利用し、千人に満たない手勢で、鎌倉幕府の大軍を破った知略や、湊川の戦いで足利尊氏のけた違いの大軍を苦しめた采配が、公家たちに強いられた無理な戦に従容として向かった姿とあいまって、歴史に名を残している。

 正成の系譜を継ぐ者は今、NHK大河ドラマの主人公になっている真田幸村(信繁)だろう。信州上田城で2度までも徳川の大軍を苦しめ、撃退した父・昌幸の知略を受け継ぎ、大坂の陣では天下人・徳川家康の心胆を寒からしめた戦ぶりで「日本一の兵(つわもの)」といわれた。

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