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【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(5)「公」を忘れた日本人へ 知と人が支えた「鉄壁の城」

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【戦後71年 楠木正成考<第2部>】
武士から武将へ(5)「公」を忘れた日本人へ 知と人が支えた「鉄壁の城」

千早城跡に建つ千早神社。正成夫妻と長男・正行を祭る=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影) 千早城跡に建つ千早神社。正成夫妻と長男・正行を祭る=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)

 〈千早城本丸跡にもと八幡大菩薩を祀(まつ)って千早城の鎮守として創建する。後に楠木正成卿、正行(まさつら)朝臣、久子刀自(とじ)を合祀して楠社と称する〉

 大阪府千早赤阪村の千早城跡に建つ千早神社に、こんな案内板がある。楠木正成を長男、妻と共にご祭神にしているのが同神社だ。

 「日本のため、人のために無私で尽くしたのが大楠公。お参りするときは、日本人の精神である大楠公の神霊に触れてほしい」

 同神社の福永弘禰宜(ねぎ)はそう話す。以前は正成が自刃したとされる5月25日に最も近い日曜日、例祭が営まれ、餅まきなどが行われてにぎやかだったという。今は宮司や住民が少人数で例祭を営む。

 静寂が支配する境内で、かつての激戦を想像させるのは、第四郭(四の丸)跡から主郭(本丸)跡への参道に生い茂る「箭竹(やたけ)」だけだ。昔は矢の材料に用いられたといい、籠城戦の大事な軍備だったことをうかがわせる。

     ◇

 〈兵法家築城家としての楠公の偉大を知ることが出来る〉

 元弘2(1332)年、正成が金剛山中腹に築いた千早城について、昭和55年発行の『千早赤阪村誌』はそう記す。同村教育課の吉光貴裕氏によると、三方は絶壁という地形を利用して築城され、尾根上に配置した13の曲輪(くるわ)(区域)と、尾根につながる稜線上の9の曲輪で構成。周辺の多くの峠にも兵を置いて、敵の侵入に備える城だった。ここで正成は100日間、鎌倉幕府の大軍と戦って敗れなかった。

 「城は非常に小規模で簡素。いわば掘っ立て小屋に柵を張り巡らせた程度だったと思われる。それでも鉄壁だったのは、正成の知略が勝っていたからだ」

 城郭研究者で滋賀県立大の中井均教授はそう話す。山間部に隠れたような城で背後を尾根伝いに登っていけば金剛山頂に到達する。

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