産経WEST

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(4)「公」を忘れた日本人へ 兵法習得を重視、16歳で元服

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】
武士から武将へ(4)「公」を忘れた日本人へ 兵法習得を重視、16歳で元服

石碑が立つ楠木公誕生地。正成が元服したのもここと推測される=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影) 石碑が立つ楠木公誕生地。正成が元服したのもここと推測される=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)

 〈延慶二年二月十三日吉日たるにより多門丸十六歳にて元服の儀式あり、楠多門兵衛尉(ひょうえのじょう)正成とぞ名乗られける〉

 江戸時代、庶民に人気のあった『絵本楠公記』にこう記されている。筆者は大坂(大阪)の浄瑠璃作者、山田案山子(やまだのかかし)。延慶2年は1309年で、永仁2(1294)年生まれとされる楠木正成は、数え16歳で元服したことになる。

 正成をご祭神にする神戸・湊川神社が発行する『大楠公』も『南朝太平記』を引用する形でこう書いている。

 〈延慶2年、大楠公、元服して正成と名乗らる〉

 武士・楠木正成の誕生である。

 「想像にすぎませんが、場所は楠木氏の館だったでしょう。楠公誕生地遺跡は二重の堀に囲まれた強固な造りで、この一帯を楠木氏が治めていた当時の事情からみても、楠木氏の城館跡の有力地と推定できます」 大阪府千早赤阪村教育課の吉光貴裕氏はそう話す。遺跡は、14世紀ごろの城館跡で、正成元服の場所としても有力地である。

  ◇

 元服とはいわば男子の成人式。大人になったことを祝い、髪形や服装を改め、頭には冠をつける。それ故に古くは「加冠(かかん)の儀」といわれたが、中世の武士社会では冠ではなく烏帽子(えぼし)をつけた。

 烏帽子をつける「烏帽子親」はいわば後見人。有力者に頼むことが一般的だった。足利将軍家の記録によると、烏帽子親のほかに髪形に結う「理髪」などの役もあって、元服は大がかりだった。

 「下級武士の生活については資料が乏しいが、(正成の場合は)将軍家や公家のようにとはいかないまでも、それを踏まえて同様の儀式は行っていたかもしれません。簡略化はされていたでしょうが」

 南北朝時代に詳しい森茂暁・福岡大教授はそう話す。当時、武家の少年は早ければ11歳。遅くとも16、17歳で元服した。16歳の元服は、12歳で初陣を果たした正成にしては遅い。その理由をうかがわせる記述が『南朝太平記』を引用した『大楠公』にある。

 〈延慶元(1308)年、大楠公、南河内加賀田の大江(毛利)時親につき兵法を学ぶと伝ふ〉

続きを読む

このニュースの写真

  • 武士から武将へ(4)「公」を忘れた日本人へ 兵法習得を重視、16歳で元服

関連ニュース

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(3)「公」を忘れた日本人へ 初陣の功、父に奇襲を進言

「産経WEST」のランキング