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【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(3)「公」を忘れた日本人へ 初陣の功、父に奇襲を進言

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【戦後71年 楠木正成考<第2部>】
武士から武将へ(3)「公」を忘れた日本人へ 初陣の功、父に奇襲を進言

常光寺に残る八尾別当顕幸の墓。顕幸の物語は正成の魅力を伝える=大阪府八尾市(恵守乾撮影) 常光寺に残る八尾別当顕幸の墓。顕幸の物語は正成の魅力を伝える=大阪府八尾市(恵守乾撮影)

 近鉄八尾駅(大阪府八尾市)から徒歩10分。禅寺・常光寺に、八尾(矢尾)別当顕幸(べっとうけんこう)の墓がある。

 〈嘉元3(1305)年、大楠公、八尾(矢尾)顕幸との戦に初陣の功あり〉

 楠木正成をご祭神にする神戸・湊川神社が発行する『大楠公』の年表にそう記されている。初陣の時、正成は元服前、数え12歳だった。顕幸の所領は河内北部。河内南部を本拠とする楠木氏とは領地を接していた。

 〈楠多門丸(正成)父正澄の前に進み出で、敵に足をためさせなば、合戦しにくかるべく候。味方唯今馳せ合うべしとは、敵思い寄るまじければ、油断してぞ候らん〉

 『南朝太平記』によると、正成はその時、奇襲を提案したという。年表はその後、こう続く。

 〈延慶2(1309)年、大楠公、八尾(矢尾)顕幸を破る〉

 〈延慶3(1310)年、大楠公、八尾(矢尾)顕幸と戦ふ〉

 〈正和5(1316)年、大楠公、八尾(矢尾)顕幸を河内人見山に破る〉

 父の死で正成が、楠木家の当主となったのは正和4年。その前後、正成の宿敵が顕幸だったことを伝承は示している。

 〈八尾顕幸は楠氏八臣の一人である。所謂(いわゆる)八臣とは和田和泉守正遠、安満了願、恩地左近満一、湯浅孫六入道定仏、八尾別当顕幸、宇佐見河内守正高、志貴右衛門朝氏、神宮寺太郎左衛門正師の八人である〉(八臣の読み方は諸説ある)

 昭和9年、同寺が発行した冊子『八尾顕幸』にこんな記事がある。正成と度々戦った顕幸が、正成の重臣になったというのだ。近世初期の成立といわれる『太平記評判秘伝理尽鈔』は、その事情を伝えている。

 顕幸の実力を知っている正成は、官位を与えて味方につけるように大塔宮(おおとうのみや)に進言した。宮は、正成が先に味方をしているのなら味方になれないとする顕幸に、「正成の存亡は知らない」と伝え、味方につけた。正成は後で策をわびたが、顕幸は「うまく謀(はか)ったな」と笑って受けながした-。

 

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