産経WEST

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(1)「公」を忘れた日本人へ 「精神」創った河内の地

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】
武士から武将へ(1)「公」を忘れた日本人へ 「精神」創った河内の地

正成が学んだ場と示す観心寺中院の石碑=大阪府河内長野市(恵守乾撮影) 正成が学んだ場と示す観心寺中院の石碑=大阪府河内長野市(恵守乾撮影)

 『太平記』は、父の首を目の当たりにした長男・正行(まさつら)が自害しようとしたが、母に諫(いさ)められた逸話を書き残す。同寺は、正成の遺志が正行に引き継がれた「学び」の場でもある。

                   ◇

 ◆観心寺

 修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が修行の一道場として草創。当初の名は雲心寺。大同3(808)年に弘法大師・空海が訪れ、北斗七星の力を境内に求め、弘仁6(815)年の再訪時に国の安泰と衆生の厄除祈願のため如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)を刻んで本尊とした。寺号を観心寺に改めたのもその時とされる。

 天長4(827)年には空海の筆頭弟子・実恵(じちえ)と、同じく弟子の真紹(しんじょう)が造営工事を開始。同寺では実恵を実質的な開基として位置づけている。正成が学んだ楠木一族の菩提寺、中院を創建したのは真紹という。

                   ◇ 

 平安時代末期に誕生した武家とは、自身の名誉と家の繁栄をひたすら願う人たちである。その意味で現代人に通じる。武家の一人、楠木正成が家も子孫も後醍醐天皇の理想に賭けたのは何故なのか。第2部ではその理由を求めて、正成の少年・青年時代を探る。

このニュースの写真

  • 武士から武将へ(1)「公」を忘れた日本人へ 「精神」創った河内の地

関連ニュース

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(2)「公」を忘れた日本人へ 名軍師の礎築いた学びの道

「産経WEST」のランキング