産経WEST

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(1)「公」を忘れた日本人へ 「精神」創った河内の地

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】
武士から武将へ(1)「公」を忘れた日本人へ 「精神」創った河内の地

正成が学んだ場と示す観心寺中院の石碑=大阪府河内長野市(恵守乾撮影) 正成が学んだ場と示す観心寺中院の石碑=大阪府河内長野市(恵守乾撮影)

 大宝元(701)年の草創と伝わる大阪府河内長野市の古刹(こさつ)・観心寺。山門を抜けて広い境内を歩くと、左手に高さ約1・75メートルの石碑がある。

 〈楠公学問所 中院〉

 中院は観心寺の支院の1つで、楠木一族の菩提寺(ぼだいじ)。南北朝時代の武将、楠木正成が少年時代、ここで学問を修めたことを石碑は伝えている。

 伝承では、正成が学んだのは8歳から15歳まで。師は僧・龍覚(りゅうかく)だった。だから学んだのは主に仏道修行だったと考えられる。

 「詳しい史料は残っていません。しかし、ここで学んだことが正成という人間をつくる『骨』となったことは間違いない」

 同寺の前住職、永島龍弘長老はそう語る。

 〈師の龍覚より四恩(しおん)(国・親・衆生(しゅじょう)・三宝(さんぽう)の恩)の教えの大切さを学んだ〉

 同寺が発行する『高野山真言宗遺跡本山 観心寺』はそう書く。国を治める王と育ててくれた父母、生きとし生けるものすべてから受けている恩を学び、仏教徒として完成するための3つの宝、つまり仏・法・僧への思索を深めたというのである。

 「国王とは『国家の統治力』。正成の場合は天皇だったと思います」

 永島長老はそう語る。衆生の恩という観点から、正成の郷土愛に注目するのは阪南大の和泉大樹・准教授だ。正成は楠木氏の氏神、建水分(たけみくまり)神社(同府千早赤阪村)の社殿を川のほとりから山上へ移し、寄進を行うなど地元で盛んに寺社造営に取り組んだ。

 「成人した正成の行動から類推しても、幼少期に自身の本拠地から近い観心寺で学んだことが地域への愛着を深めたと思います」

 一方で、見落としてはならないのは師、龍覚の出自である。鎌倉幕府の侍所の初代別当(長官)、和田義盛の子孫と伝わる。和田氏は後に北条氏との権力争いに敗れ、滅んでいる。

 「正成と龍覚の間でどのようなやり取りがあったのか、わからないが、観心寺で学んだ結果が、後の行動となって表れていると思います」

 永島長老の指摘は、歴史ロマンをかきたてる。

 倒幕がなって、建武新政が始まると、正成は後醍醐天皇の命を受け、同寺境内に金堂を造営した。さらに「建武」の成功を願い、三重塔建立を計画した。計画の半ばで、正成が湊川(神戸市)の戦いで敗れ、自害したために塔は初層だけの「建掛塔(たてかけとう)」のまま、今に残る。

 正成の首は足利尊氏の命で、同寺に届けられ、境内の首塚で祀(まつ)られた。

 〈今年十一歳に成りける帯刀(たてわき)(中略)父が兵庫へ向ふ時形見に留(とど)めし菊水の刀を、右の手に持ち抜きて、袴(はかま)の腰を押しさげて自害をせんとぞしゐたりける〉

続きを読む

このニュースの写真

  • 武士から武将へ(1)「公」を忘れた日本人へ 「精神」創った河内の地

関連ニュース

【戦後71年 楠木正成考<第2部>】武士から武将へ(2)「公」を忘れた日本人へ 名軍師の礎築いた学びの道

「産経WEST」のランキング