産経WEST

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所

産経WEST 産経WEST

記事詳細

更新

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】
多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所

信貴山朝護孫子寺所蔵の兜。正成が奉納したと伝わる=奈良県平群町(恵守乾撮影) 信貴山朝護孫子寺所蔵の兜。正成が奉納したと伝わる=奈良県平群町(恵守乾撮影)

 太平記の記述をさらに紹介する。倒幕をめざす後醍醐天皇は元弘元(1331)年8月27日、笠置山(京都府笠置町)に行幸し、そこで夢を見た。

 〈大いなる常葉木(ときはぎ)ありて、緑陰茂りて南へ指したる枝ことに栄え蔓(はびこ)れり〉

 木に南、と書けば「楠」という字になる。天皇は、京や笠置から見て南の河内に楠木正成という武士がいることを知ると、直ちに呼び寄せた。天皇の意を知った正成はこう返答した。

 「正成一人いまだ生きてありと聞こし食(め)し候はば、聖運はつひに開くべしと思(おぼ)し召し候へ」

 いかに鎌倉幕府の大軍に攻められようと、正成が討ち死にしない限り、倒幕の目的は必ずかなうという力強い言葉だ。正成の心境を鈴木貫主はこう推測する。

 「正成は幼少期から、なぜ自分は『多聞』という名なのかと思っただろうし、親から教育を受けたのではないか。それなりに自信があったのだろう」

 菊水紋の飾り金具が入った兜(かぶと)(重要文化財)に、菊水が施された旌旗(せいき)(平群町文化財)。朝護孫子寺霊宝館には正成の奉納品とされる2点が並ぶ。旌旗の「元弘元年九月十日」という墨書銘は、旗揚げのころと一致し、天皇につく決心をして納めたと考えられる。

 「信貴山へのあつい信仰を物語っている。山は地理的な要衝で、情報伝達する山伏も多かった」

続きを読む

このニュースの写真

  • 多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所
  • 多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所

関連ニュース

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(2)「公」を忘れた日本人へ 祖父の代、駿河から河内に

「産経WEST」のランキング