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【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所

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【戦後71年 楠木正成考<第1部>】
多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所

信貴山朝護孫子寺所蔵の兜。正成が奉納したと伝わる=奈良県平群町(恵守乾撮影) 信貴山朝護孫子寺所蔵の兜。正成が奉納したと伝わる=奈良県平群町(恵守乾撮影)

 〈これは彼が母若かりし時、志貴(しき)の毘沙門(びしゃもん)に百日参詣して、ある夜錦帳(きんちょう)の内より、玉を給(たま)ふと夢に見て儲(もう)けたる子にて、童名をば多聞(たもん)とは付けて候(そうろ)ふなり〉

 楠木正成の誕生について、太平記はそんな伝承を記す。「志貴」は河内(大阪府)と大和(奈良県)のほぼ境に位置する信貴山(標高437メートル)の朝護孫(ちょうごそん)子寺(しじ)(同県平群町)である。寺の本尊、毘沙門天は聖徳太子が物部守屋(もののべのもりや)を討伐するため、この山で戦勝祈願すると、寅年の寅日、寅の刻に現れ、願いを成就させたという言い伝えが残る。

 「中世という厳しい時代の、女の秘めたる戦いを感じさせます」

 子孫長久の祈願所ともされた寺で懐妊を祈る母の姿について、信貴山成福院(じょうふくいん)の鈴木貴晶貫主(かんす)はそう語る。太平記が書く「玉」は仏教の如意宝珠(にょいほうじゅ)のことで、母は夢のなかでのみ込み、これが子宝、つまり正成に変化した、と伝わる。

 四天王の一尊である毘沙門天の異名は多聞天。憤怒の相の甲冑(かっちゅう)姿で、左手に宝塔、右手には宝棒を持ち、仏法を守護する。後に上杉謙信ら戦国武将も信仰した武神である。正成の誕生譚(たん)には、武将にふさわしい男子を願った母の思いが読み取れる。

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